『英米法辞典 編集代表 田中英夫』をぱらぱらとめくる。一枚のレシートがはさんであった。まさしく、これだ。東京の西の郊外、国立(くにたち)市にある一橋大学西キャンパスの消費生活協同組合書籍部が発行したもので、
91-6-26 13:14 合計16,871と印字されている。買い物をした年月日が今から32年前の1991(平成3)年6月26日、時間が午後1時14分、支払額の合計が¥16,871であることを示している。私が43歳を迎える少し前のときだった。 

皆既日食 (Total Solar Eclipse)
2024年4月8日米国テキサス州ダラス( Dallas, Texas)
画像 NASA提供

八路軍にわたった日本の九七式中戦車改新砲塔チハ
(きゅうななしきちゅうせんしゃ チハ)
            (画像提供 戦車研究室)
【全長:5.52m 全幅:2.33m
全高:2.38m 全備重量:15.8t 乗員:4名
エンジン: 三菱SA12200VD 4ストロークV型12気筒
空冷ディーゼル 最大出力:170hp/2,000rpm
最大速度:38km/h 航続距離:210km
武装:一式48口径47mm戦車砲×1(対戦車戦闘用) (100発)
   九七式車載7.7mm重機関銃×2 (4,220発)
装甲厚:10~25mm】

満洲国国旗(五色旗)      満洲国国章

要拡大画像2枚:東大安田講堂事件
提供:時事通信社
【時: 1969年(昭和44年)1月18日~1月19日

場所:東京都文京区本郷 東京大学本郷キャンパス安田講堂
攻撃側人数:警視庁機動隊約8500人(うち重傷31
防御者:全学共闘会議2000人前後
(うち重傷1)】

 東京大学の入試が初めて中止になったこの年は仙台まで足を運んだ。東北大学理学部の入学試験を受けるためだ。しかしここで再び不合格を喫した(この仙台の地は、42年後にこの『異界紀行』「第5話ウエスティンホテル仙台の怪現象」の舞台となる)。

【余談:母の思い出 その1
「男性としてこの世に生まれていたら、ものすごい人物になっていただろうね。」
これが、私を含めて7人兄弟姉妹の母に対する共通の認識だった。「竹を割ったような性格」という表現があるが、母の気性を表すのにぴったりかもしれない。曲がったことが大嫌いで怒ると烈火のごとしだが、一切根にもたずさっぱりとしていて、とても慈悲深い。
6歳の時、国分寺東恋ヶ窪の花沢橋近くの民家から、国立町青柳811番地に越してきてすぐに小学校1年生になった。
それまでは、建築現場できれいなタイルを拾い集めたり体長2mにもなるアオダイショウ(青大将)などと戯れたりして、自由気ままで好き勝手なことをやってきたわけだから、この学校通いという日課はいやでいやでしょうがなかった。そこで、理由をつくってはズル休みをしたり、通学途中で引き返してきたりしたことがあったが、これで母の怒りを買った。
昔の物差しはプラスチックではなく、竹でできていた。長さは30㎝くらいだったろうか。この物差しで幾重にもなるミミズ腫れになるほど、尻を激しく打ち叩かれた。母に対する恐れを感じたのはこの時が初めてで、母のイメージが「慈悲深き母」から「慈悲深き鬼」に変わった瞬間だった。
しかし、この物差しの効果はてきめんで、それからというものは、自宅から飛ぶようにして学校に通うようになった。それから70年経った。今でも、そのときのお尻の切れるような痛みは忘れられない。】

 青梅街道の南北両側は江戸時代中期の元禄時代に入植した広大な敷地をもつ農家があまた並び、その敷地には見上げるほどのけやき(欅)の大木が街道を見下ろすように林立している。
 1・2月の真冬日の朝刊配達は、軍手を二重にはめても寒さで指先は痛かった。その当時は今と違ってほとんど新聞休刊日はない。夕刊が休みになる日などあっただろうか。専業なので、当然拡張などの営業や集金業務もやらなければならない。たまたまあった休刊日には、立川市の図書館に受験勉強のため行くこともあったが、睡眠不足で一日20分位しか勉強できなかった。

 錦町6丁目にあるその図書館の辺りは、兄に紹介された立川市高松町の小さな製造所から仕入れた納豆を自転車に乗って売っていた受け持ち区域なので、特別に愛着のある場所だ。国立4小の5年生から6年生の一学期のころまでだったけれど、早朝「ナットー、ナットナット!」と、納豆売り特有の抑揚のある大きな声を出しながら頑張っていた。
 図書館を南へ多摩川に向かって下っていくと甲州街道に突き当たる。街道の手前に大きな桃畑があり、目を見張るほど立派な桃が実っていた。これが、現在まで続く私と桃の最初の出会いだった(桃に関心のある方は“和田憲雄FB”で検索してください。種から育て成人し見事に咲いた桃の花が出てきます)。

 その当時(1967年頃)、この国はまだまだ貧しかった。雨が降る日がある。当たり前。でも、雨がっぱが人数分なかった。夏なら濡れてもいい。真冬、冷たい雨が特に腰から下に浸みこんでくると辛かった。
カラーテレビがようやく普及してきたころで、もちろん今どきのSNSなどあるわけがない。だから、みんな新聞の到着を心待ちにしていた。「早く配達しなければ」。その一念で体に浸みこんできた冷酷な雨を克服した。そのようなことを挙げればきりがない。しかし、その辛さを帳消しにする素晴らしいこともあった。
 夏の晴れた日の、日の出前後の配達は忘れることのできないほど爽快な気分に包まれた。草木に浄化された早朝特有の新鮮な空気を胸いっぱい吸いこみ、木々の放つ言いようのない香りを体いっぱいに浴びることができる。いわゆる「早朝の大気の香り」だろう。これを思い出すと、この年齢になっても朝刊配達をしたくなる誘惑に駆られるから不思議だ。指先が凍えて痛みを感じるほど辛い時もあったのに。
半世紀を経た今でも「欅の大木の街道」はまだまだ健在である。

 2年半ほど経った22歳の初秋の頃、両親が車で小川町1丁目にある戸建ての社宅に突然訪ねてきた。これには正直驚いた。この社宅の場所は、家族の誰にも伝えていなかったはずだ。専売所で聞いてきたのだろうか。
 母から、“もういいから、家に帰ってきなさい”と言われた。そろそろ潮時だなと考えていた私は、母のこの言葉に素直に従い急遽帰ることになった。この社宅はガソリンスタンドを経営する農家の方が建てたもので、畑のど真ん中にあった。この建物の北側には見事な芝生が広々と植えられ、西側には赤みを帯びた薄紫色の鮮やかなミツバツツジが咲く木立が茂り、季節になると目を楽しませてくれた。私の人生の一節を象徴する、思いで深くとても美しい場所だ。 
 しかし、帰ることになったのは良いが、2年半で蓄えた貯金は、その当時の大学入学費用の半分にも満たない。そこで、墨田川に面した築地魚市場で、仲卸(市場内の店舗)から茶屋まで魚介類を大八車で運ぶ軽子(かるこ)の仕事をした。築地のマグロ問屋で働いていた兄が、太陽組合に紹介してくれたお陰だ(太陽組合は各店舗に毎朝、軽子を斡旋する紹介業を営んでいた)。
 ズボンの後ろポケットに世界史の『傾向と対策』という問題集を突っ込み、頃合いを見計らっては車と車の間に大八車を突っ込んで勿論、ごく短時間だが問題に没頭した。しかし、これで仲卸の責任者から大目玉をくらった。“おまえ、一体どこ行ってたんだ!” 
 大声で怒られるほどそんなに長く現場を離れてはいなかったはずだ。変だなと思いながらも、とにかく私はひたすら、“すみません、すみません”と頭を下げ続けていた。
 この築地魚市場でアルバイトをしていた頃、日本を震撼させる事件が起きた。ノーベル文学賞の最有力候補として目されていた三島由紀夫である。


【余談: 三島事件
1970年11月25日、作家三島由紀夫、森田必勝(まさかつ)ほかで成る民兵組織「楯の会」のメンバー5名が東京新宿区の市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部を訪問し、益田兼利総監を拘束。幕僚らを斬りつけた後、三島がバルコニーで自衛官に憲法改正(憲法第9条破棄)のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた檄を訴え、その後総監室で三島と森田が割腹自決に至ったクーデター未遂事件

12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。
三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。
三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。】(出典:ja.wikipedia.org/wiki/三島事件)


 そして、年が明けた1月の中ごろ、高校時代の柔道部の合宿所だった千葉県岩井海岸の民宿に2月中旬過ぎに迫っていた入試の受験勉強のため出かけた。

【余談: 雑巾の命の水
岩井へは中央線国分寺駅→総武(本)線→内房線岩井駅まで一本の鉄路で行くことができる。道路だと青梅街道→靖国通り→京葉道路をつかって、これもほぼ一筋の道のりである。まだ蒸気機関車が走っていた時代で、窓を開けたままトンネルに入ると顔がすすだらけになった。
都立小平高校柔道部の岩井夏合宿は苛烈を極めた。その当時野球部がなかった小平高校は新進気鋭の創立3年目で、1期生で翌年東京学芸大学教育学部に進んだ伊藤進先輩の下(もと)、3期生の私を含めて総勢二十数名の若き柔道家は1週間(8日間だったかもしれない)、体力の極限に挑んだ。
朝6時起床→7時半の朝食まで約1時間浜でランニングと筋力トレーニング→8時半~11時まで稽古→昼食→午後1時半~4時まで稽古→夕食6時→午後8時~9時半まで夜稽古〙
 この日程で辛かったのは、午後の稽古の「喉の渇き」と午後8時~9時半までの夜稽古だった。その当時は稽古中の水分補給は禁止されていて、一滴の水も飲むことが許されなかった。
民宿の部屋の間仕切りを取り払って作った、にわか仕立ての柔道場は風通しが悪い。余計に汗をかく。これ以上は体がもたないかもしれない。限界を感じ始めたある日、妙案が浮かんだ。
 柔道場には雑巾とバケツがいくつか置いてあった。稽古が終わってから畳を拭いたり、稽古中、汗で濡れて滑りやすくなった畳を拭いたりするためのものだが、この雑巾に目を付けた。
できるだけキレイに洗って水をたっぷりと含ませておいた雑巾を水の入ったバケツの縁にかけておく。畳の汗を拭きとる前、悟られないように、顔をふくような仕草をして含ませておいた水を一気にジュッと吸いこむ。
畳を拭いた後はバケツにあらかじめ入っている汚れていない水で雑巾を洗い、ゆるく絞ってから縁にかけておく。次回のためだ。このようにして、喉を潤すことができた。
まさしく、「命の水」だった。
水分の補給なしで耐え抜いた部員が大勢だった中で、私は我慢ができなかった。
今だから公言できるのだが、都立小平高校のこの柔道夏合宿は常軌を逸していた。一日一日生き抜くのが精一杯だった。合宿の間中、夜稽古には疑問を感じていた。一体誰がこのような合宿を考え出したのだろう。部長の伊藤進先輩だろうか。この夜稽古では、全員上半身裸で二人一組になり、相手の腋に腕をまわして大腰や跳腰(はねごし)などの腰技の打込み稽古(二人一組で特定の技を掛けあう練習形式)をするのだが、上半身汗だくで手が滑るため、相手の体にこちらの腰などを密着させないと技が決まらない。
腰技の極意は相手の腰を自分の腰にどれだけ密着させることができるかにかかっているので、そのための稽古だったのだろうと今では思う。しかし浜でのランニングと筋力トレーニングに始まり、午前午後の稽古そして夕食後の夜稽古。一つ一つが全力投球だった。精も根も尽き果てるとはこのようなことを意味するのだろう。
朝六時の起床タイム。伊藤先輩は“きしょう”とは言わず、大声で“ちきしょう!”と自ら怒鳴って、体が死んでいたみんなをたたき起こしていた。せいぜい6時間の睡眠時間だった。
水分補給禁止に関しては、そのようなものだと思っていた。

これまでの人生で、肉体的にも精神的にも限界かなと思うことがしばしばあった。たとえば、後述する代々木紘武館(館長 松村重紘氏)の真夏の杖道稽古や小平杖道会(主宰西川忠邦氏 顧問 西岡常夫氏)の杖道の稽古のとき、そしてアラスカブリストル湾Bristle Bay のナクネック Naknek やディリングハム Dillingham のサケ漁だ。
( 西川忠邦氏は30歳時の私に、武道の本質すなわち稽古を通じて、生死不問:「死ぬ覚悟」で人生の諸事に臨むことを教えて頂いた人生の師である。色々あったが、時を経た現在、深い感謝の気持ちに打たれる)。

しかし、その都度必ず自然と脳裡に蘇ったのは、この合宿の「雑巾の命の水」と18年後(1984年)の3月に経験することになる伊豆八丈島「春トビウオ漁」だった。
小平高校のあの柔道合宿があったればこそ今までの人生で、ほぼ全てから逃避せず乗り切れたのかもしれない。】

 受験勉強の逗留期間は半月ほどだったが、そこで英語・世界史・国語(古文・漢文)の徹底的な過去問演習をやった。英語は高校時代かなり原書を読み込みそのための英文法もしっかりやっていたお陰で心配はなかった。偏差値は最高で85をマークしたこともあった。問題は世界史にムラがあり、これを克服することにあった。近現代史は興味を引く事項があり得意なのだが、古代・中世には関心事が少なく不得手だった。たとえば中国宋王朝時代の通貨の種類など、私にとってはどうでもよいことだ。しかし、こういうのが入試には出てくる。だから、この岩井では不得意分野の過去問を徹底的にこなした。実際に中大の入試で世界史の問題を見たときは、あっと驚いた。あの築地魚市場で車と車の間に大八車を突っ込んでやっていた、不得意分野の問題が顔を出したのだ。

余談:夏みかんと不思議な夢
しかし、慣れない環境のせいだろうか。高熱を出した。その晩のこと、不思議な夢が現れる。
空を飛んでいる。飛び方はちょうどヒヨドリのと同じ。つまり、高いところから低いところへ、重力の加速度を得てスピードを上げて下(くだ)り、その勢いで次は上昇する。その繰り返し。その飛行曲線は、数学の三角関数で学ぶ正弦曲線に近い。そして、いつの間にか新宿辺りのビル群を見下ろしながら飛んでいることに気がついた。高度はそれほど高くはない。ビルの窓がはっきりと見える。人影は見えただろうか。岩井と小平の自宅は新宿を間にはさんで京葉道路・靖国通り・青梅街道など一筋の路でつながっている。月は出ていなかった。沢山のビルの窓明かりが映えている。そして、我が家に着いた。
 家の中を屋外斜め上から見つめた後、屋根や外壁の物理的抵抗を全く感じずに中に入って行った。母は薄暗い六畳の部屋の東南の隅でなにか縫物をしている。兄と弟もいる。姉二人は結婚しているので家にはいない。父もそこにいて、普通の日常の生活がそれぞれに営まれていた。私は何度か必死に母に声をかけた。私からは家族全員の姿が普通に見えているのだが、私の声は聞こえていないようだ。私の姿も見えていないのだろう。私たちが通常ふれている世界とは別の、薄茶色のうす暗い世界がそこに広がっていた。でも、とても嬉しかった。元気な家族に会えたから。夢はそこで終わった。】

 朝、目覚めた時、かなり汗をかいていて首まで濡れていた。そして、熱は完全に下がっていた。
 民宿の庭にたわわに実った夏ミカンの木があった。昨日熱が出た時、その大きな実を一つもいで、かなり酸っぱかったが残らず食べた。その夏みかんのお陰だと今でも思っている。
 私の住む集合住宅の敷地の一角に現在、夏みかんの木とキンカンの木がならんで立っている。夏みかんは東伊豆の大川産、キンカンは鹿児島産。どちらも17年ほど前に種から育てている。夏みかんの方は3年前に数えきれないほど可愛い青い実を初めてつけた。私を助けてくれた夏みかん。子孫を増やしてあげたい。その一念で見守っている。

 そうして、中央大学に入った。
しかし、入学したその年(1971<昭和46>年)の夏8月21日(土)、母がクモ膜下出血をわずらい、10月30日(土)に二回目の出血を起こし12月4日(土)52歳で他界した。
8月の最初のときは命をとり留めたが、片方の目、確か右目だったろうか、すでに見えなくなっていた。

 亡くなる10日前の11月24日(水)、8時間に及ぶ手術が行われた。「手術は成功しました。」
微笑みを浮かべた執刀医のその言葉を信じた父・兄・弟そして私は、飯田橋から自宅の小平に戻り喜びの言葉を交わしていた。
 まさにその時、夜の8時30分ころだったろうか、病院から「呼吸が乱れ意識が戻らない。昏睡状態に陥った。」と電話連絡が入った。この電話が入る直前、自宅(現在の集合住宅に建て替えになる前の棟割り木造住宅)の引き戸の玄関がガタガタと大きな音を立てて大きく揺れたという。どういう訳か、私は全く感じなかった。
 父は私が46歳の時胃がんのため79歳で亡くなったけれど、父と兄、弟そして私などが食卓を囲みそのことが話題になった時、私だけが蚊帳の外だった。私もその場所にいたのに、なぜ私だけその音と振動を感じなかったのだろう。
 昏睡状態に陥ったとの連絡をうけて、父以下私たち親子4人は小平から飯田橋まで車のハザードランプを点灯し、ヘッドライトをハイビームにして緊急走行で急いだ。病院についたときの母の状態は、目を開くこともこちらの問いかけにうなづくこともでき、痛みを感じることもできた。
 しかし、そのような反応も時間の経過とともに徐々に弱くなり、29日(月)12時10分に呼吸が停止した。脳血栓が原因だという。
ただちに人工呼吸器を装着。12月1日(水)午前11時30分から数時間にわたり鼻汁がでて、4回下血があった。
2日(木)99%体の反応はなくなった。午後8時、血圧170に上昇し急変する。
4日(土)午後3時脈拍108に急上昇、午後8時50分心臓停止し永眠する。
 母の左手の指には、純金でできた大きな指輪が光っていた。(以上は1971<昭和46>年4月発行中央大学学生部発行学生手帳に記した記録に拠る)。
 執刀した医療機関は、東大附属病院で紹介された飯田橋の東京警察病院だった。
 家族が病院に到着するまでしばらくの間、わたしは霊安室で母と二人きりで時を過ごした。
母の遺体から漂う気配は、母が「慈悲深き鬼」から「慈悲深き母」に戻っていないことを語り、静かにわたしを見つめているようだった。わたしは、正直畏れを感じていた。
原因解明のため解剖を所望されたが固辞した。手術成功→呼吸停止→心停止という思わぬ急展開に家族一同、通常の判断能力はなかった。
 親孝行をすることは、結局できなかった.

【余談:母の思い出 その2】
母の死を遡ること9か月前、私は国鉄お茶の水駅から母に電話をかけた。「受かったよ!母ちゃん!」、「ああ、知ってる」。私はてっきり、「やったね!よかったね」と言われるのではないかと期待していたので拍子抜けした。
合否発表の当日の午前中に合格通知書がすでに自宅に届いていたのだ。帰宅すると、私の勉強机の上に合格通知書が大きな封筒に入ったまま斜めに置かれていた。この光景に私はハッとした。昨夜見た夢とぴったり一致していたからだ。封筒のサイズと色、机に置かれた位置、斜めに置かれたその角度など、どれもこれも夢そのものだった。
母は郵便局員からその書留を受け取ってどのような思いをしていたのだろう。

「天文学者になってどうやって食べていくの。」「学者で、生活していけるのか。」
「学問と生活、どっちが大切なの。」
「法律をやりなさい」

私は天文学をやるために、何があっても大学に進むことを決心した。国立第四小学校の4年生のときだった。ただそのためにだけ大学に行くとずっと決め込んでいた。だから、大学とは私にとって、いわゆる「功成り名遂げる」あるいは「立身出世」のための手段でも何でもなかったのである。
「学問と生活」の相克など、私にとってまったく縁のない世界の話だった。小平高校3年生のころから言われ始めた母のその言葉の辛辣さは、理学部天文学科をめざして受けた東京大学理科一類に不合格になった年に頂点に達したのだった。】

 合格通知が届いて数日経ったころ、父に向かって母の力強い声が隣の部屋まで聞こえてきた。
「うちからも、やっと弁護士が出るね!」

 父は母の突然の死のショックから生活に変調を来たした。しばらくして、兄は築地魚市場で知り合った女性と結ばれて、小川から八王子の千人町へと越していった。
そのため、自宅で英語塾を開いたり第二種免許をとりタクシー運転手などのアルバイトをしたりして生計を立てざるを得なかった(普通自動車第一種免許は、あの毎日新聞小川専売所時代に取得していた。)。

【余談:母の思い出 その3】
母は大正8(1919)年の4月生まれ。昭和35(1960)年8月、41歳のとき東京都北多摩郡国立町青柳811番地から同じく北多摩郡小平町小川西町にある公営住宅に越してきた(この住宅は、平成6<1994>年頃に鉄筋鉄骨造の9階建集合住宅に建て替えられるまで棟割り2世帯の木造住宅だった)。
すぐ上の兄が小平町小川東町にあるメーターを製造する丸山電機(現 丸山幼稚園)という会社に就職したのがきっかけだった。この会社に行くために、靑柳811番地の住まいから国立駅まで兄は歩いていた。中央線の国立駅から国分寺駅まで、そこからさらに西武国分寺線の小川駅まで行くためだ。靑柳から駅まで距離はかなりある。男の足で大急ぎで歩いても30分以上はゆうにかかるだろう。
母のもう一つの思い出を語る前に小川というこの町の戦前の歴史に少しふれてみたい。

兄が就職したその会社の東側に鎌倉時代、群馬県高崎市(旧 赤坂の荘)につづく上道(かみつみち)と言われた府中街道が走っているが、この街道の東側一帯にブリヂストン東京工場(現 ブリヂストン東京ACタイヤ製造所)の広大な敷地が広がっている。

陸軍兵器補給廠小平分廠
1942(昭和17)年6月、板橋区十条にあった東京陸軍兵器補給廠(しょう)の分廠として小平分廠が開設された。補給とは戦闘に必要な物資を前線に供給することである。全国には11の兵器補給廠があり、そのもとに分廠が32あった。小平分廠は全国の軍需工場でつくられた戦車や装甲車、軍用トラック、サイドカーなどの大型兵器を運び込んで保管し、ここから必要とする部隊に供給する施設である。また小平分廠は車両の修理工場を有しており、そこに多数の工員を擁する軍需工場という側面をもっていた。26万坪余りの敷地に、本部や修理工場のほか、兵器やその備品、燃料等の倉庫が林立し、戦車ほかの車両は野天で保管されており、なかが見えないように杉板の高い塀で囲まれていた。
場内には現在の西武鉄道国分寺線に接続する鉄道引き込み線があり、新品の兵器や要修理の兵器が鉄道を使って運び込まれ、再び戦地に運び出されていった(2025年現在の地図と照合すると、この引き込み線は小平市小川東町2丁目アパートの1号棟と4号棟の南端に接する西武拝島線と一致する。この線は府中街道を高架で越えブリヂストンの敷地内を通り、その当時はなかった萩山駅に接続する。この萩山駅を東進すると終点が新宿。急行で小川駅から約40分)。

たとえば1942年のシンガポール陥落の際には、戦利品であるイギリス製の自動車が大量に運ばれてきて、エンジンを整備し、車体を塗り直して、軍用車として再び戦地に送り出した(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)。相模原の造兵廠でつくられた戦車の場合は、2、30台が隊列を組んで、キャタピラーの轟音を響かせながら府中街道や青梅街道を走ってきたとのことであるが、運び出しには鉄道が用いられた。なお兵器の運び出しは機密保持の観点から、貨車の上の兵器にシートをかぶせ、夜間におこなわれた。
所内には軍人・軍属である職員や工員、徴用工のほか、学徒勤労動員でやってきた学生・生徒も働いていた。小平の人も多く職員や工員として採用された。ある男性は、中国戦線での兵役を終えて帰還してから、再び召集されるまでの二年間、小平分廠で守衛をつとめた。農家の三男である彼は「特に手に職がなかったので、食っていくため」に分廠に職を求めたと語っている(「陸軍兵器補給廠守衛の仕事」)。
青木昇は高等小学校を卒業したら「養蚕学校」に入るつもりだったが、親の希望で分廠の幼年工になった。戦車を移動させるためにそれを操縦したが、14、5歳のころの彼には背丈が足りず、操縦席に木の台を乗せて座ったという(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)。
兵器補給廠に勤務する者たちは、日々兵器の出入りをみることで、戦局の悪化や国力の低下を実感していった。
武器を送っても南方の戦地に届かないということが続けば、補給路となる海域の制海権を失ったことを知ることになる(「陸軍兵器補給廠守衛の仕事」)。青木昇は、廃車からエンジンや部品を集めるために、群馬県や宮城県を二か月にわたって回った。令状もなしに動かない車をかき集めて利根川の河原に並べ、片っ端からエンジンとプロペラシャフトを抜き取って、車体はそのまま放置していったこともあったという。こうして集めたエンジンは小平分廠で整備して特攻兵器に使うために送り出されたというが、日本軍が前線に満足な兵器を送り出せない状況に追い込まれていたことは、幼年工の目にも明らかであった(「陸軍兵器補給廠と幼年工」)出典:『小平市史 近現代編』。

後述するが、小川に越してくる前の国立町青柳811番地の二階建ての大きな寮は陸軍獣医資材本廠で働いていた学徒勤労動員の学生・生徒たちや女子勤労挺身隊の宿舎だった。この異界紀行では触れていないが、2歳頃に住んでいた昭島市築地(ついじ)町45番地の2階建ての建物(構造は青柳811番地の引揚寮と瓜二つ)は陸軍立川飛行場と隣接している。そこには立川飛行機立川工場などがあった。この築地町の建物もそのための宿舎だったのだろう。敗戦で帝国陸海軍は消滅した。脱亜入欧を国是として明治維新の富国強兵政策がたどり着いた結果がこれだった。
「先に銃を抜かせる」英米が結局、東洋人より上手だった。 
そして、学徒勤労動員の学生・生徒たちや女子勤労挺身隊の人たちも宿舎から影のように去って行った。そのあとに、引揚者の私たち家族らが入ってきたということだろう。そのような歴史事実を後世の私たちが忘れようが知るまいが、歴史と時間は列車のように私たちを車内に閉じ込めて間断(かんだん)なく未来へと運んでいく。まるで過去の歴史事実がなかったように。
しかし、たとえば上記の「1942年のシンガポール陥落の際には、戦利品であるイギリス製の自動車が大量に運ばれてきて、エンジンを整備し、車体を塗り直して、軍用車として再び戦地に送り出した」のくだりは、私が生まれる前のつぎの歴史事実を過去から現在にいきいきと蘇らえせている。
「日本軍は、ハワイで米太平洋艦隊、マレー沖でイギリス東洋艦隊に打撃をあたえ開戦後から半年の間にイギリス領のマレー半島・シンガポール・香港・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領フィリピンなど、東南アジアから南太平洋にかけての広大な地域を制圧して軍政下においた。日本国民の多くはこの段階の日本軍の勝利に熱狂した。」(『詳説日本史』山川出版p339 2012年3月発行)

このように、ある町のある場所に、現在の姿からは想像もつかないほど深く重要な歴史事実が眠り続けていることも事実だ。その歴史事実を深い眠りから敢えて起こすことは、非常に大切なことかも知れない。
私たちが現在という時間軸に縛られず、教科書や歴史書に載っている過去の世界を時を超えてありありと実体験できるからだ。まるでタイムスリップして過去へ旅をするように。そこには父や母そしてご先祖様が元気に生きていた世界が横たわっている。よくNHKテレビにでる岡山県出身の歴史学者は“古文書”に魂が惹きつけられるという。その意味がこのごろ少しだが分かるような気がしてきた。
そのような意味で、この世は捨て難い魅力を秘めているようだ。 

さて、母の思い出に戻ろう。母のもう一つの側面の慈悲深さ=「慈悲深き母」についてだが、この年齢になっても母のある行動が脳裡にこびりついて離れない。その行為の淵源は一体どこにあるのだろう。今となっては、私には分からない。
前述したように、現在住んでいる集合住宅は鉄筋鉄骨造に建て替えられるまでは棟割り2世帯の木造だった。今から65年前、この小川に越してきた昭和35(1960)年当時、トイレは水洗ではなく汲み取り式だった。
月に一回大雨の日も雪の日も、荷台いっぱいに大きなタンクと太いホースを積んだバキュームカーがやってくる。作業員は必ず二人だった。私たちの汚物を回収するためだ。
母はそこに無言で立っていた。作業が終わるまで。月に一回、その人たちが来るのが待ち遠しいかのように、必ず。手に何か持っている。二人の方に渡すものだ。感謝の印として。それは、タバコ2箱だった。銘柄は変わることなくいつもハイライトだった。このくだりを書いているこの瞬間でも、2人の方の作業を無言でじっと見つめながら立っている母の姿がありありと目に浮かぶ。私は数メートル離れたところからこのありさまに毎回釘付けになっていたが、母にとって私の存在はそこにはなかった。
母の心にはどのような思いがめぐっていたのだろう。どのような光景がまぶたに映っていたのだろうか。やはり、満洲だろうか。

 私は23歳になっていた。そのような状況下で、中央大学には休学期間を含め結局8年間お世話になった。
 中央大学の在籍限度年数(在学年限)は8年。その期間内に卒業しなければ除籍扱いになる。つまり、在籍限度年数超過で除籍された場合、復籍は認められず卒業資格を得たいのであれば、通常の入学試験を再び受けなければならない。これは、中大に入るまでの3年と在学期間8年の計11年という時間がすべて灰塵に帰すことに等しい。
 卒業のためには履修科目それぞれに与えられている単位(1,2,3,4などの数値)を単位認定試験に合格して修得し、その合計単位が卒業要件を満たせばよい。しかし、必修科目の単位を一つでも未修得にしておいた場合は、修得した単位の合計が卒業に必要な単位をたとえ超えていても卒業はできない。
 留年を継続する手段として私はこの制度を利用し、未修得にしておく必修科目として一番苦手とする渥美教授の刑事訴訟法を選んだのだった。この選択が後々に「恐怖」に転じて私に降りかかって来ることになるが、この時点では思いも寄らなかったのである。私は休学届の提出と未修得必修科目1科目を残すことで留年を重ねていた。

一橋大学小平キャンパス(現在は一橋大学小平国際キャンパス)の西方に寄り添うように津田塾大学小平キャンパスが佇んでいる。一橋大学南端の緑道を潤す玉川上水に沿って、西へ歩いていけば数分の所だ。2008(平成20)年4月6日、85歳で他界された中央大学法学部名誉教授八木國之(くにゆき)先生は、季節がめぐれば鶯の里と化すこの津田塾大学界隈に住んでおられた。八木先生には刑法総論でお世話になった。

要拡大画像N1: 2023.6.1 現在の世界
の核弾頭 全保有数

画像G1:原爆投下直後の浦上天主堂
【余談:なぜ、浦上天主堂は原爆遺構として保存されなかったのか。
(ここにも見え隠れする米英加の影)
「1895年(明治28年)2月大聖堂起工式。
1914年(大正3年)3月17日  浦上天主堂が完成(「天主」は「神」を意味する。)。
1925年(大正14年)5月 正面の高塔ドームまでの工事が完成 。
1945年(昭和20年)8月9日  長崎県長崎市への原爆投下により、爆心地の北東約500mの至近距離にあった浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。主任司祭・助任司祭をはじめ天主堂にいた信徒全員およびカトリック浦上小教区の信徒合わせて約8500人が死亡
1955年(昭和30年)5月、カトリック長崎司教山口愛次郎天主堂再建の資金援助を求めて渡米したが、米国側から資金援助の条件として天主堂遺構の撤去を求められたという。ちょうど同じ頃、長崎市は米国ミネソタ州セントポール市との間で日米間の都市としては初めてとなる姉妹都市提携を締結。当時長崎市長天主堂遺構の保存に前向きであった田川務は、締結の翌年1956年(昭和31年)に米国を訪問したが、帰国後はアメリカへの配慮を優先して保存に否定的な立場となるなど態度を一変させている。1958年(昭和33年)の市議会では「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と強弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会は(被災した浦上天主堂のある)現地での再建計画を公表したが、原爆資料保存委員会は、1958年(昭和33年)に「旧天主堂は貴重な被爆資料である故にを保存したいので、再建には代替地を準備する」と提案した。しかし長崎司教山口愛次郎はこれに対し、「天主堂の立地は、キリスト教迫害時代に信徒たちがを強いられた庄屋屋敷跡であり、その土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史」的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが、移転は信仰上到底受け入れることはできない」という意思を決定した。
キリシタン迫害に耐え抜き、悲願として浦上天主堂を建設した原爆被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川務市長の意向が共に再建を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されることになった。2018年6月30日には世界文化遺産として“長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産”が登録され、大浦天主堂などが認定されたが、再建された浦上天主堂はこれに含まれていない」(ウイキペディア:「 カトリック浦上教会ー原爆遺構の保存問題」から抜粋引用)

大浦天主堂は長崎市への原爆投下によって破損したが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れた。
画面下、原爆の衝撃でもげて転がり落ちた石像の頭部は、浦上教会信徒会館2階の原爆遺物展示室で保存されていると思われる。
このように、浦上天主堂にまつわる一連の動きをみてくると背後に潜むある「策略 A crafty trick」に気付かれるのではないだろうか。
その策略とはすなわち、

「長崎に原爆を投下したという歴史事実は消すことはできない。しかし、原爆がキリスト教の聖堂である浦上天主堂とその信徒の命を破壊したという事実を風化し、人々の記憶から忘却させることはできる。
そのためには、浦上天主堂を原爆遺構として保存し存置させてはならず、この地上から除去・抹殺しなくてはならない」

ではなぜ、浦上天主堂を破壊した事実とその信徒の命を奪った事実を風化し、人々の記憶から忘却させなければならないのか。
聖堂は単なる建物ではなく「神殿」を意味します。「神殿はもともと幕屋で、神への近づき方・出会い方を表したものです。その中心には至聖所がありました。しかし、イエスが十字架で死なれた時、至聖所と外界との隔ての垂れ幕が真っ二つに裂けてしまいました。そして今や、主の霊を注がれている私たち自身が神の神殿であり、神と直接お会いする至聖所なのです。」(日本基督教団 八王子教会 牧師 加藤英徳)

↓画像G1; 偶然の造形だが、原爆の悲惨さを物語る二つの顔のようなものが、象徴的にしゅったい(出来)している。
石像の一部だったのだろう、頭部が転がっている。明らかに男性のこの頭部は誰だろう。キリストの使徒の一人だろうが。

1914年、東洋一といわれた浦上教会が完成したとき、正面祭壇の最上段にはイタリアから送られてきた高さ2mの木製のマリア像があった。ムリーリョの傑作「無原罪のお宿り」の絵画(マドリッドのプラド美術館に現存)をモデルに制作されたと伝えられ、両眼には青いガラス玉、水色の衣をまとい、頭の周りを12の星が取り巻く美しい像であった。
しかし、浦上教会は原爆により壊滅。マリア像も教会とともに焼失したと思われていたが、戦後、焼け跡をたずねた浦上出身の神父によってマリア像の頭の部分だけが発見された(画像G4)。
その後、発見した神父がマリア像を大切に保管していたが、被爆30周年の年に、キリシタン研究家である片岡弥吉かたおかやきち氏の手を通じて浦上教会に返された。
現在、マリア像は、浦上天主堂の一角につくられた小聖堂に静かに安置されている。祭壇に描かれた「平和」の文字は、浦上キリシタンが迫害時に縛られて見せしめにされた柿の木の根っこを使用して書いたものである。
傷ついたマリア像は、身をもって戦争の恐ろしさ、原爆の脅威を訴え続けている。(文章:長崎市 河村規子氏)

↑要拡大画像G1:原爆投下後 浦上天主堂

↓要拡大画像G2:原爆投下後 浦上天主堂全景
1946年春、山端庸介氏撮影
【上の画像G1は次の画像G2の左端の構造物に相当する。この構造物を左正面から撮った画像が、上の画像G1

↓画像G3:原爆投下前の浦上天主堂

画像G4:被爆マリア Atom-bombed Mary
(イエスの母マリアの木製像の頭部)

                           

中央大学講堂壇上
【横断幕の左端の文字「昭」の真下に紺色のスーツ姿で横向きに立っている方がいる。この方が渥美東洋教授。後列左端(・・)で着座している方は小林昇教授

【左端の画像:中央大学講堂の上部。中央の画像:卒業式の会場入口(1979<昭和54>年3月25日)。左端の画像とこの画像は連続写真。講堂の全体像は右端の中央大学駿河台講堂を参照されたい(出典:中央大学70年史)】

異世界の意識体

 駿河台校舎2号館中庭掲示板
 昭和53年度卒業合格者名 
【法律・法8年次生の欄、上から3番目に私の氏名。その真下に 「意識体」の「」が覗いている。】 

 私が小学生時代を過ごした国立を語る前に、感謝の気持ちをお伝えしなければならない方がいる。その方が小林昇中央大学名誉教授である。1929(昭和4)年生まれの先生は旧制学習院高等科を経て東京大学法学部政治学科を卒業後、東京大学大学院ドイツ文学科修士課程を修了した経歴をもち、中央大学では私の第一外国語ドイツ語の主任教授だった。結婚式にはお住いの横浜から小平の式場まで来てくださった。また、米国ロースクール留学の際には、先生の御助力で当時中央大学の法学部教授であった住吉博氏と同じく外間(ほかま)(ひろし)法学部長から推薦状をいただくことができた。
 私は1992(平成4)年の7月に渡米して1996(平成8)年の6月に帰国したが、この年の3月末で先生は中央大学を定年退職されていた。茗荷谷キャンパスの法学部事務室や神田駿河台の学員会本部事務局など八方手を尽くしたが連絡がとれず、ご恩に何一つ報いることができない状態が続いている。じくじ(忸怩)たる思いである。

Ⅲ. 【1954(昭和29)年 国立
青柳 811番地】

 中央線国分寺駅西側に架かる花沢橋近くの民家から、国立の青柳(あおやぎ)811番地に移ってきたのは私が6歳のとき(1954<昭和29>年12月)で、翌年の4月に東京都北多摩郡国立町立国立第二小学校に入学した。3年生の4月の新学期からは新しく開校した国立第四小学校に移り、それから小学校6年の夏休みまで約6年間、この地で過ごした。
 ここに一枚の写真がある。青柳(現在の国立市北3丁目22番地)の木造二階建てアパートの2階から撮ったこの画像には、引込み線の「小さな踏切」(後掲画像Bの赤丸)をちょうど通過する蒸気機関車いわゆるSL(Steam Locomotive)が写っている(後掲)。手の平に収まるくらいの可愛いカメラで撮った一枚で、1957(昭和32)年、私が国立第四小学校の3年生の頃だったと思う。このカメラは同じアパートの1階に住んでいた俳優の佐藤(まこと)(まこと)さん(当時23歳)または彼のご兄弟(お兄さん?)の方からプレゼントされたもので、私の大切な人生初のマイカメラになった。
【「引込み線」:「専用線」が正式名称。通称が「引(き)込み線」または「専用側線」】

 佐藤允さん(1934<昭和9>年3月生)は1953(昭和28)年19歳のとき、劇団俳優座養成所に第4期生として入団した。同期には宇津井健・佐藤慶・仲代達矢・中谷一郎らがいる。1956(昭和31)年に東宝へ入社。1959(昭和34)年、『独立愚連隊』に主演して一躍脚光を浴びた。私が小学校5年の11歳のときだった。
 佐藤允さん本人かどうかは分からないが、ご家族の住む1階の部屋からトロンボーンの音がよく聞こえていた。吹いていた方はご兄弟(お兄さん?)だったかもしれない。後日、すぐ上の姉に聞いたところ、「俳優の佐藤允さん本人だと思う。お母ちゃんも好感をもっていた人です。いい顔していた方で優しい人でした。」と教えてくれた。

トロンボーン(trombone)
:「大きなトランペット(trumpet)」の意
画像はテナートロンボーン
(tenor trombone)
画像: 楽器図鑑カナデルーム

 私の母はこの時まだ30代のときで、まだまだ元気そのものだった。このころ、この引込み線を立川駅の方へたどり市内(立川市)循環バスが走る広いバス道路(画像B)をすぎて5,6分行くと、ムロ(室)と呼ばれるコンクリート造りの広い地下室があった。記憶に刻まれている場所の一つだ。青いバナナなど未成熟の果物を熟成させて甘くやわらかく香り高くする部屋だが、ここにも僕ら子供たちはよく遊びに来た。とびきりのご馳走にありつけるから。

アパート(引揚寮)の集会所
【手前右側後ろ向きの女性が私の母。壁に子供たちの絵がかかっている。
画面上中央、すぐ右側に線路を描いた絵がみえる。引込み線と思われる。
1955(昭和30)年撮影

 私の父の家族は四国の松山から一家総出で満洲の奉天(現瀋陽)に移住しそれなりの生活をしていたのだが、敗戦のため現地の財をすべて失った。ただ運よく命だけは失うことなく祖国の土を再び踏みしめることができた。
 その一方で、満蒙(まんもう)開拓団の世界移民史未曾有の惨劇があった。開拓団の逃避行において、ソ連兵・反日感情を抱いていた中国人による虐殺、略奪、凌辱を受け、凄惨な集団自決などが頻発したのである。以下、その概要を記しておく(章末に、資料として満洲国図満洲農業移民募集広告、山梨県からの開拓団・豊村の現地開拓村の画像を添えた)。
【開拓団の全在籍者数27万のうち死亡者は7万8500人。四道河豊村開拓団ダイナマイト集団自決事件(浜河省阿城県)、五家站(ごけじん)・来民開拓団全員青酸カリ自決事件 (吉林省扶余県)や小八浪(こはちろう)・中川村開拓団 幼児絞殺・溺殺事件(三江省樺川県)、瑞穂村開拓団集団自決事件(北安省綏稜県)などの個別事件例、および哈爾(る)(はるびん)、長春などの難民収容所における惨状については「まんしゅう母子地蔵を守る会」の検索をお薦めする。】

 引揚げ船には、ボロの衣をまといお(こも)さんと見まがう女性や子供が少なからず乗っていた事実は何を語っているのか。満洲各地の開拓村から逃げ延びてたどり着いた難民収容所には、泥を塗って顔を黒く汚した女性や、丸坊主頭で男装した女性、故意に顔に傷をつけ包帯や絆創膏をしてわざと容貌を醜くした女性が大勢いたという(丸山邦雄著『在満同胞を救へ』)。
 ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦の略称)の対日宣戦布告と満洲国侵攻の情報をえた大日本帝国陸軍関東軍の軍人・軍属はその家族も含め、天皇直属の最高統帥機関である大本営の対ソ連作戦にしたがい、満洲を放棄し朝鮮半島の防衛に戦力を集中するためいち早く南下した。軍の拠点だった(ぼつ)利(ぼつり)(り)・林口・牡丹江の関東軍は、見事にもぬけの殻だったそうだ。
 しかし、満蒙開拓団の人々を満洲から安全な地帯へ避難脱出させることはしなかった。頼れる壮年男子はすでに関東軍に「根こそぎ動員」され、開拓団の構成員は女・子供・幼児だったにもかかわらず。
 満蒙開拓団にはソ連進攻の際の盾となること、抗日分子に対抗するための治安対策、関東軍への兵員・食糧の供給源となること、また、新設の満州国で日本人の人口比率を高くすることが策定されていた(藤田繁 編『石川県満蒙開拓史』)。
そのため、ほとんどが北満洲の国境周辺の土地を与えられ、1945年8月のソ連進攻にあたって、開拓団員らが満州奥地から逃げ遅れ、多数の虐殺・自決を起こす原因となった。
 そこへ、ソ連兵や反日感情をもつ暴民がやって来た。凄惨を極めた惨劇や逃避行はここから生まれる。さらに、この過酷な逃避行から九死に一生を得て避難してきた人々を待ち受けていたものは、次々に命を落とす悲惨な難民収容所だった。
 翌昭和21(1946)年5月以降、引揚げ船に乗ることのできた前述の女性・子供たちは、このような現実からかろうじて生き残った奇跡の人々だったのである。
 しかし、祖国に帰ってから引揚者(ひきあげしゃ)は生活苦にあえいでいた。裸一貫、命からがら脱出せざるを得なかったのだから当然である。主食はほとんど、さつまいも・じゃがいも・すいとん(メリケン粉の団子と醤油味の汁)だった。でも、じゃがいもに塩をまぶして食べるとおいしい。さつまいもは甘くて食欲を満たすけれど胸が焼ける。しかし、白菜の漬物が胸やけを抑えてくれる。
 むごい夢を見た。目の前にごちそうが所せましと並んでいる。ところが、それを口に入れようとした瞬間、夢が覚める。夢なのだから食べさせてくれてもよいではないか。悔しい夢だ。悔しくて、残念で、「お腹すいたよう、お腹すいたよう」と声をあげわんわん泣いてしまった。真夜中に。だから、あのムロのことは忘れられないし、感謝もしている。

 記憶にこびりつき、この歳になっても普通に思い出す場所がもう一つある。
 そのころ、貸本漫画がはやっていた。小学校4,5年生の頃だったと思う。僕たちは寝る時間をまるで惜しむかのように貪るように読みふけっていた。学校から帰ると、宿題などそっちのけで十円玉を片手に貸本屋さんに飛んで行った。当然、学校の成績は惨たんたるもので通信簿は正直、目も当てられない。でも、叱られても涼しい顔でどこ吹く風だ。全然気にならず、幸せで毎日充実していた。少年漫画には大きな夢があり、素晴らしい未知の世界へ連れて行ってくれる。
 子供は本能的に好奇心が旺盛だ。その好奇心を学校の教科書ではなく、漫画が活性化し大いに満たしてくれた。特に、房総半島銚子の犬吠埼灯台と、剥きだしになった地層が延々と続く断崖絶壁「屏風ヶ浦」を表紙にした漫画本が思い出に残っている。
 若夫婦が切り盛りしていたその貸本屋さんは、立川の羽衣町へ抜けるバス通りの「悲しい踏切」(画像A・B)を越えたすぐ左手にあった。要するに、この踏切を越えなければならない。ムロへ引込み線伝いに歩いて行くときも、この踏切のすぐ北側を必ず通らなければならない。
 住んでいるアパートの2階の部屋からは中央線がみえる。なぜか、昼夜を問わずこの踏切で列車が止まっていることがちょくちょくあった。悲しいことに、すべて自死だった。
 夜の9時くらいだったろうか、子供心にみんなと一緒に見に行ったこともある。線路端の木の枝に引っかかった内臓の光景が目に焼きつき、65年以上経った今でも記憶から追い出すことが不可能だ。
それ以来、二度と見に行くことはなかった。

 ムロから歩くと10分少々で立川駅北口に着く。駅周辺のビルのそこかしこに、白い服装の身なりをした脚が片方ない人や腕のない人が松葉杖を傍らに置き、壁に寄りかかるようにして何人も座っていた。初めて見たときはこの理解し難い光景にとても驚いた。
 この人たちが戦争の惨禍で体の一部を失ったいわゆる傷痍軍人の方々で、道行く人から寄付を募っていた(白衣募金)と知ったのは後々のことだ。
 朝鮮戦争(1950<昭和25>年6月25日-1953<昭和28>年7月27日)による特需景気や神武景気(1955<昭和30>年-1957<昭和32>年)とよばれる大型景気で、この頃、日本経済は急速に成長し始めたとされている。しかし現実は、このように戦争の傷跡が生々しく残り多くの人が貧しく飢えていて、自死が多発する時代だった。
 そんな時代に、佐藤允さんの一所懸命練習するトロンボーンの音が一階から鳴り響いてくる。私の頭の中では、この時代の現実と、トロンボーンという楽器及びその奏でる音色とがまったく嚙み合っていなかった。それは、戦後の暗い世相を吹きはらい新しい時代の訪れを告げる黎明の音色だったのか。意外性を感じた小学生の心に、その音色は残照の如く刻まれた。

「小さな踏切」を通過中の蒸気機関車 (1957<昭和32>年)。 
【住まいの青柳811番地のアパートは、現在の都営国立北三丁目アパート16号棟。カメラは南東方向を向いている。SLの後方約1.7㎞地点に中央線立川駅。】

 この蒸気機関車が通過中の小さな踏切から立川方面へ200メートルほど戻ったところに、前述の広いバス道路が通っているが、その辺りから盛り土の上に線路の軌道が敷かれていて土手になっていた。この土手はアパートの北側にある陸上自衛隊東立川駐屯地の方までずっと続いていた。
 正月になると僕たち子供らは、ほぼ全員その土手の上からいっせいに凧揚げをした。そして、凧の高さと手から繰り出す凧糸の長さを競った。土手を吹きわたる風は強く冷たく、かなりの高さまで揚がる。空高く遠くへ上がれば上がるほど凧糸の自重と凧にかかる風圧で、小学生の細い人差し指に糸が食い込んでくる。痛い。手にかかる力と必死に闘う。友達との競争より、凧との真剣勝負になる。正月の寒さなどもうどこにもなかった。 

佐藤允さん 1961年27歳  独立愚連隊 東宝

引込み線の土手は小学生の私にとって大きく、そこそこの高さがあった。土手を上がって線路に出ようとしても、勾配もあり草に覆われていて滑るためそれほどたやすくはない。でも、春から初夏にかけて可愛い野辺の花で土手は埋めつくされる。それに、釘をナイフに変身してくれる線路もある。
 引込み線はバス道路の少し手前から弧を描きはじめるので、「小さな踏切」辺りで遊んでいる僕たちからは、立川駅貨物ヤード(画像A・C・D参照)からやって来るSLの姿を見ることはできない。逆に、運転士からも当然、僕たちを発見することはできない。貨物ヤードから中央線に沿って走ってきたSLは「悲しい踏切」のすぐ北側でバス通りと交差するが、そのとき、必ずとびっきり大きな汽笛を辺り一面に吹き鳴らす。
 踏切があることを知らせる標識くらいはあったかもしれないが、線路が勝手に道路を横切っているという風情で、踏切特有の遮断機や警報灯はおろか柵など一切なかったからだ。平成や令和の時代の一般の安全意識からは信じ難いだろうが、「汽車が踏切を通過する」というよりはむしろ、「汽車が道路をわたる」あるいは「汽車が道路を横断する」という表現の方がしっくりするかもしれない。
 この汽笛が、SLがこちらに向かって進行していることを知らせる、あたかも合図のようになっていた。あとは僕たちのいる「小さな踏切」(画像B右端下の赤丸)までどれくらい近づいているか知るだけだ。そこで、耳を線路に押しあてる。近づいてくる機関車の振動音(転動音)がレールを伝って徐々に大きくなる。この増幅する音だけで正確な距離を推定しなければならない。距離はあっても200メートルそこそこ。
 はるか彼方からやって来るような「カタコトカタコト」と、心地よく耳に伝わっていた振動音が次第に大きく迫ってくる。やがて、あらゆる物を巨大な力で押しのけていくような豪快な音が体を走りはじめる。その時だ。“来た!” さっと身をひるがえし、土手の下に身を隠す。じっと目を凝らす。車輪が釘を踏む、その一瞬を逃すまいと瞬きもせず全身全霊で一点に集中する。 
 正月の凧揚げもそうだったが、これも子供なりにいわば命がけだった。出来上がったばかりの小さなナイフはピカピカと銀色に光っている。僕たちの目もキラキラと輝いていた。
 線路に釘を置くことなど、決してしてはいけないことだとみんな知っていた。ただ、鉛筆などを削るのに必要だったナイフが欲しかった。折りたたみ式ナイフはそうたやすく買えるものではなかった。
 引込み線はそのような意味も兼ねた僕たちの格好の遊び場だったのである。学校へ行くにはその土手を横切る「小さな踏切」を越えて行く。通学路に沿った畑には桑の木が方々にあった。季節になると実をいっぱいつける。毎年6月、黒に近い濃い紫色になると食べ頃で、甘くて実においしかった。学校まで続く農道の道すがら、ほおばる桑の実で口の周りもズボンのポケットの中も紫色に見事染まっていた。

折り畳み式ナイフ 画像:NHKアーカイブス
桑の実【赤い実はまだ酸っぱい。たまに外れがあるが、みずみずしくつやのある黒紫の実が一番甘くておいしい。体長5㎝ほどの白い幼虫「カイコは絹の生産(養蚕)のために家畜化した昆虫であり、野生動物としては生息しない。」とされているが、この時分ときどき葉を食べている様子を見た覚えがある。】
撮影日:2024.5.16 撮影地:府中街道九道の辻、野火止用水の土手に生える3本の桑の奇跡の大木から。   

中央線立川駅の貨物ヤードから進行してきたSLは、この小さな踏切を通過するとすぐに、陸上自衛隊東立川駐屯地へ向かう線と立川飛行機株式会社に向かう線とに分岐していたと人は言う。つい先日のことだ。分岐点は私が住んでいたアパートのすぐ東側。正直、本当に驚いた。私にはその記憶がないからだ。そこで、国土地理院の航空写真で調べることにした。結果、その方は正しかった。確かに分岐し見事な単線の軌道が 2本あったのである。  
すなわち、筆者の家族がこの地に越してくるちょうど10年前の1944(昭和19)年に撮影された画像A(後掲)によると、赤丸内の2本の線のうち左側(西側)が陸軍獣医資材本廠(現陸上自衛隊東立川駐屯地)に引かれていて、右側の線(いわゆる立飛線)はこの本廠の東縁を通って芋窪(いもくぼ)(いもくぼ)街道を越え、当時の立川飛行機株式会社の敷地(現在の住所:立川市泉町935番地)まで確かに延伸されていた。
 しかし、1957(昭和32)年10月10日(筆者が小学校3年生の(・)とき(・・))に撮影された画像Bでは左側の陸自東立川駐屯地への引込み線がすで(・・)(・)消失(・・)している。
 それでは、いつごろまでこの東立川駐屯地への引込み線はあったのだろうか。さらに調べてみると、前年の1956(昭和31)年3月10日(翌月の4月から小学校2年)米軍撮影の航空写真で、まだ(・・)敷設(・・)(ふせつ)されていることが確認できた。
 つまり、陸自東立川駐屯地に引かれていた引込み線は、1956(昭和31)年3月10日から1957(昭和32)年10月10日の間に撤去されたことになる。
 なお、1942(昭和17)年11月6日に陸軍が撮影した画像Dには、先に陸軍獣医資材本廠へ引かれる引込み線の工事が行われている様子が写っているので、立川飛行機への立飛線はこの後延伸されたことも分かった。   

【要拡大画像】画像A 
撮影日: 1944(昭和19)年11月7日 
撮影機関: 陸軍
【画像A~Hは、国土地理院が保存しているか、または 国土地理院自ら撮影した画像】

【要拡大画像】画像B
画像A黄枠内の対応画像 
撮影日: 1957(昭和32)年10月10日
撮影機関: 米軍 赤丸は「小さな踏切

 ところで、陸軍獣医資材本廠という名称はあまり聞きなれない。「(しょう)」(しょう)は「壁仕切りのない、ただっ広い建物」を意味するというが、この建物の役割は何だったのだろうか。陸軍獣医資材本廠の「獣医」の「医」の意味を、医師ではなく医療の「医」と解するとこの本廠の目的がみえてくる。
 犬界二ユース「陸軍獣医資材廠新設さる」(1940<昭和15>年によれば、
 「軍馬、軍用犬、鳩等の涙ぐましい働きは既に銃後にも知れ渡つてゐるが、これ等軍用動物の病気の治療と豫防に完璧を期して将来戦に備へるため、従来衛生材料廠内で行はれてゐた獣医材料及び蹄鉄の製造研究等を分離獨立させて、新設の獣医資材廠で行ふ。
 例へば、軍用動物の風土病の豫防薬や傳染病の注射液の研究や補給を司るなど、治療から一歩を進めて豫防に重點を置き、本廠を東京(立川市)に、支廠その他を所要の地に置いて物言はぬ兵士の戦力増進に貢献する事になる。」
【この年(1940<昭和15>年)の9月23日、帝国陸軍が北部仏印(北部仏領インドシナ)進駐した結果、米の対日くず鉄禁輸を招いている。真珠湾攻撃の1年と2か月半前である】

 兵庫県伊丹市にあった同様の施設(陸軍獸医資材(・)廠長尾分廠)跡にたつ説明版(伊丹市教育委員会)には、このように記されている。
 「この施設では、主に軍用馬の蹄鉄などの生産や、包帯・医薬品の保管・管理が行われ、終戦前には軍関係者のほか、勤労動員学徒・女子勤労挺身隊などの人達など、約800人が働いていました。
 戦後の昭和21年(1946年)3月に閉鎖された施設は、同年5月1日から外地からの引揚者(・・・)用応急援護施設「県立長尾寮」として転用され、現地からの引揚者の生活を支えていました。」。
 犬界二ユースとこの説明版の内容で陸軍獣医資材本廠の役割が理解できたが、説明文に出てくる「引揚者」の文字をみて、読者の中には「おやっ」と思われた方もいるのではないだろうか。
 私の家族と佐藤允さんの家族が住んでいたアパート(南棟)の北側には、渡り廊下でつながったもう1棟の同じ二階建てのアパート(北棟)があって(画像B参照)、この2棟は「引揚寮」とよばれていた。
【余談:渡り廊下がある中庭は、薄暗くなると必ずコウモリが何匹も飛来する。この二階建てのアパートの屋根よりも低いところを飛んでいたので高さは5メートルくらいか。野球帽を投げて獲ろうとしたが結局一匹もとれなかった。
 この北側の棟と陸軍獣医資材本廠の距離はわずか70mしか離れていない。
 ひょっとすると、私たちが住んでいたアパートは、「県立長尾寮」と同じ役割を担っていたのではないか。この疑問は下記の(1)~(6)の画像B・C・D3枚の航空写真の比較・分析、ならびに(7)このアパートの構造から確信に変わった。

【要拡大画像】画像C
撮影日:1941(昭和16)年7月4日 
撮影機関: 陸軍
【右下、縦の黄色の実線は未造設のバス通り。西地区は畑の状態。南地区一帯は引込み線が未敷設で武蔵野の雑木林がまだ残っている。】       

【要拡大画像】画像D
撮影日: 1942(昭和17)年11月6日 
撮影機関:陸軍
敷設工事中の引込み線
画面右端下の引込み線の赤矢印を左に追うと軌道が途切れていることが分かる。】    

(1)画像Cは画像Dより16か月前の1941(昭和16)年7月4日に撮影。画像Dの撮影日は、1942(昭和17)年11月6日。
(2)画像Cの黄枠で囲った2地区(西地区および南地区)と画像Dの黄枠で囲った2地区はそれぞれ一致対応する。
(3)画像Cで畑だった西地区には、16か月後に撮影された画像Dによると、同一規格の造りで規則的に配置された平屋建て住宅が建っている(黄色の点線は陸軍獣医資材本廠の南境)。(4)画像Cで林だった南地区には、同じく16か月後に撮影された画像Dによると西地区の平屋建てと同一の住宅および複数階の建物が2棟建っている
(5)画像Cでは陸軍獣医資材本廠敷地内のまばらだった建築物が、画像Dではその棟数をかなり増やしていて、工場や倉庫などが稼働状態にあることが強く推定される。
6)画像Bにはこれら西地区と南地区で建築された建物の形や配置などがより鮮明に写っていて、同一規格であることがうなずける。
 以上からは、陸軍獣医資材本廠が稼働する時期に合わせて、西と南両地区に同一規格の平屋建ての住宅が完成しているので、これらの住宅が陸軍獣医資材本廠の軍人・軍属用などの宿舎であることが強く推定される。
 (7)私たちの住居だった2階建て木造アパートは南北両棟とも中央階段を中心に左右対称の構造で、1,2階とも左右にそれぞれ4部屋だったか。であれば、1棟で16部屋。2棟で32部屋。部屋の広さは7人家族でも窮屈さを感じたことはない。最大居住人数は、一部屋大人5人として5x32で160人。
 部屋の構造だが、押し入れはある。中にトイレはない。風呂などない。私の家族がいた南棟は、渡り廊下で東側の引込み線際に設けられた共同トイレと洗濯場に接続していた。これは画像Bに鮮明に写っている。
 北棟は北側(獣医資材本廠側)に共同トイレと洗濯場。これも画像Bに鮮明に写っている。各部屋とトイレ・洗濯場との構造からこの建物は単身者の相部屋だと思われる。
 以上(1)から(7)までを総合すると、この南北の両棟は全国各地から動員された勤労学徒や女子勤労挺身隊の人達などの宿舎であったと強く推認される。

 ところで、勤労学徒や女子勤労挺身隊のことは、日本史の教科書などで必ず触れられている。また、例年8月15日の終戦記念日のころになるとテレビなどで報道特集を組まれたりしている。
 ここでは、女子勤労挺身隊に焦点を当ててその実態に少し光を当ててみよう。何が現れてくるか、楽しみである。
 まず、女子勤労挺身隊はどのようにして創設されたのだろうか。その直接の根拠を時系列で示すと、次の1)2)3)の勅令だが、

1)1941年(昭和16年)12月1日に施行された国民勤労報国協力(・・)勅令第995号では、14歳以上25歳未満の未婚女子を対象とした勤労報国隊が編成され、原則年間30日の奉仕(・・)が要求された。(この1週間後の12月8日午後11時40分<一部新聞報道では11時45分>に日本の対米英宣戦布告」)
2)1943年(昭和18年)6月18日、1)の国民勤労報国協力(・・)令が改正勅令第515号)されると勤労報国隊は常時組織化され、3-6ヶ月の勤労奉仕(・・)を要求した。(この4か月後、第1回学徒兵入隊を前にして1943年<昭和18>年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会
3)1944(昭和19)年8月23日、日本内地において12歳から40歳までの日本人未婚女子を対象に軍需工場など戦争遂行体制に強制(・・)動員する「女子挺身勤労令」(勅令第519号)が公布・施行された。 
 なお、同日に中等学校以上の生徒や学生を軍需産業や食料生産に動員する学徒勤労令も公布・施行されている。【勅令:大日本帝国憲法下で、帝国議会の協賛を経ずに天皇の大権によって制定された命令⇐大日本帝国憲法第8条】
 これらの勅令は1938(昭和13)年3月31日に公布された、次の国家総動員法を淵源としている。

国家総動員法第1条:「本法に於て国家総動員とは戦時(戦争に準ずべき事変(・・)の場合を含む以下之に同じ)に際し国防目的達成の為、国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的及物的資源を統制運用する(い)ふ。」。(旧字は常用漢字に変換)
国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる旨を第1条で定め、強制的(・・・)に職場を配置換えする人的資源の統制運用については同法4条で「政府は戦時に際し国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り、帝国臣民徵用して総動員業務に従事せしむることを得。但し兵役法の適用を妨げず」(旧字は常用漢字に変換)と規定している。
【「臣民」の意:大日本帝国憲法下で、天皇と皇室以外の国民を指す語。天皇と臣民は支配と隷従の関係に立つ。】

 この国家総動員法は1937(昭和12)年7月7日に勃発した「盧溝橋事件」を機として泥沼化した日中戦争支那事変)を起因として成立している。
 つまり、この法律は日本が米英に対し宣戦を布告した1941(昭和16)年12月8日より、なんと3年と8か月以上も前に公布された法律であって、日米戦が苛烈になってからできた法律ではなかった。私は思い違いをしていた。浅学を恥じるばかりだ。国家総動員体制を敷かなければならないほど、帝国日本は中国に深入りしていたとは。今更ながら驚いている。
 この3年8か月という年月を見つめ、米英をも敵に回した歴史を俯瞰すると、日本を破滅へといざなった根源は、識者らが指摘するように1931(昭和6)年9月に勃発した満州事変と翌1932(昭和7)年3月に建国された満州国にあるのか。
 果して、日本は中国全土を植民地ないし属国にしようとしていたのか。日中戦争に勝利すれば不可能ではない。これで想起されるのが、豊臣秀吉の東アジア戦略について述べた『詳説日本史』の一節:「16世紀後半の東アジアの国際関係は、中国を中心とする伝統的な国際秩序が、明の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は、この情勢の中で日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序をつくることを志した。」(p158。山川出版社2002年2月5日発行。「明」:1368年–1644年 中国歴代王朝の一つ)。
 「新しい東アジアの国際秩序」とは、すなわち、万暦帝治世の中国明朝を滅ぼし、代わって秀吉が中国を支配して東アジア世界の覇権を握ることを意味する。
 1587(天正15)年、秀吉は対馬の宋氏をとおして、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導とを求めた。朝鮮がこれを拒否したことから「文禄の役」と「慶長の役」まで、豊臣政権による朝鮮侵略が始まった。 

「文禄の役」:1592年新暦5月−1593年新暦7月〈文禄元年4月−文禄2年6月〉。総大将:宇喜多秀家。日本軍約15万8千。明救援軍・朝鮮国軍・義勇軍総数約24万7千「慶長の役」:1597年新暦?月−1598年新暦12月<慶長2年?月−慶長3年11月>。総大将:小早川英明。日本軍約14万1千。朝鮮国軍の数は諸説あり。明軍約9万2千。出典:「秀吉のアジア戦略ー文禄の役・慶長の役」『和田義盛の寳剱』p76−77】

 秀吉が1598(慶長3)年に病死し日本軍が撤兵したため、秀吉の前後7年におよんだ朝鮮侵略は徒労に終わり結局中国明朝の征服は叶わなかった。
 時代が下って20世紀。日清・日露戦争を制した時の政府は、その勢いに乗じて1910年(明治43年)8月29日「韓国併合ニ関スル条約」に基づき、大韓帝国を併合して統治下に置き朝鮮半島を領有した。

★秀吉による「日本を中心とする新しい東アジアの国際秩序」と、上記第1次近衛文麿内閣による「1938(昭和13)年11月3日の東亜新秩序声明」は一致する。
北部仏印進駐の意図援蒋ルートの遮断。南部仏印進駐の意図:資源獲得および援蒋ルートの遮断 。 米国の対日政策の転換点日本の「東亜新秩序形成の表明(米国の東アジア政策への本格的挑戦とみなす)。 援蔣ルート:日中戦争で、米国などが蒋介石を指導者とする中華民国国民政府を軍事援助するために用いた輸送路】
などの一連の流れは、明を滅ぼし東アジア世界の覇権を握ろうとした秀吉の亡霊がなせる業だったのか。それとも、その時代の最高法規だった大日本帝国憲法(明治憲法)のなせる御業だったのか。憲法学者・長尾一紘はこのように語っている。
「明治憲法の基本的特質である絶対主義的性格は、天皇の神権的性格と強大な統治大権に端的にあらわれる。この絶対主義的性格は、日本の近代化のストレートな発展を阻害し、さらには軍部ファシズム勃興の一要因となった。」 (長尾一紘著『日本国憲法 新版』p6 世界思想社)

余談A:大日本帝国に米英蘭に対し開戦を決意させた要因の一つとして、開戦11日前のハル・ノートがある(ハル・ノート: Hull note / Ten Points 1941<昭和16>年11月27日<日本時間>、米国務長官コーデル・ハル Cordell Hullが日本側に手交した「覚書」形式の交渉文書で、正式名称は「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」:Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan。)。
このハル・ノートの役割すなわち真の意図は、この前年の昭和15年:1940年の一連の歴史事実を追うことで見えてくると思うのでここで触れておく。特に⑪に注目したいはハルノートの第2項4登場してくる
 1月19日 毛沢東「真民主主義論」を発表。
 2月 1日 ヒットラー、ドイツ本土からユダヤ人をポーランド総督府へ移送開始。
 3月20日 ハル米国務長官、南京国民政府(汪兆銘政権)否認声明発表。
 5月10日 イギリス、チャーチル挙国一致内閣成立。
 6月10日 イタリア、イギリス・フランスに宣戦布告。
 6月14日 ドイツ軍、パリ入場。
 8月 3日~ 6日 スターリン、リトアニア・ラトビア・エストニアをソ連に編入する。
 8月12日 ドイツ、イギリス本土爆撃を開始。
 9月 3日 米英、防衛協定調印。
 9月23日 日本軍、北部仏印(フランス領インドシナ)進駐。

⑫ 10月16日 アメリカ、対日くず鉄輸出禁止。

余談Bアメリカの世界征服戦略
ABCD包囲陣に石油・くず鉄などの戦略物資を絶たれしびれを切らした大日本帝国は、米英に敵意をいだきハル・ノートを奇貨として真珠湾を急襲し米英蘭に宣戦を布告した。アメリカによって、先に「銃」を抜かされた典型例となった。
米国はある国を殲滅(せんめつ)あるいは保護国化ないし植民地化または自国の傀儡(かいらい)国家にすべきことを国是とした場合、その国に先に「銃」を抜かせることで、自国民を鼓舞し米国の宣戦布告を正当化する。
その国が(米国のその戦略に落ち、先に)「銃」を抜き、発射するであろう「弾丸」による被害の程度は緻密に計算され、決して米国の致命傷にはならないように作戦を立てる(理由:致命傷の場合は、米国の敗戦がその時点で濃厚になる。真珠湾攻撃における米国が避けるべき致命傷とは、日本軍による「米空母の撃沈を必ず含む米戦力の壊滅的損害」)。
そのために、その国の情報の収集民族性も含めて)に全力を傾ける(米国は、中国春秋時代の武将・軍事思想家の孫武の作とされる兵法書「孫氏の兵法」を会得している)⇒余談Aの⑪により、帝国海軍の真珠湾奇襲作戦を事前に認識⇒ハル・ノートは「先に銃を抜かす」ための挑発カード
相手の国に先に抜かせた銃の「弾丸」の標的となる犠牲者、いわゆる「捨て駒」となる自国の軍人・軍属・民間人などの人命の損失や、戦闘機・軍艦などの正面装備の損耗は、規模にもよるが、決して惜しまない(理由:爾後、滅ぼした国の軍事・外交・経済・政治・社会などは、アメリカの利益のために存在させる(In the Interest of America)。
すなわち、相手国に払わせる代償<=アメリカが受け取る対価>は、その国一つの国家であるから。要するに国を手に入れることにある。)。
しかし、見返りとして「捨て駒」を含めたすべての犠牲者=戦没者は、その宗派を問わず国家の英雄としてArlington National Cemetery(アーリントン国立墓地)に手厚く埋葬・慰霊される。
遺骨収集なども重要視され、目を見張るほどの機動力をもって極めて迅速で徹底している。わが国日本とは天と地の差である(理由:我が国の戦没者は、日本国憲法制定以前は米国のような市民または国民ではなく、天皇に従属し支配される者すなわち「臣民」と位置付けられていた)。

【余談:遺骨収集の現況
来年の2025年は1945年の敗戦から80年をむかえる。「遺骨収集」の現状はどうなっているのだろうか。新聞の投稿をみてみよう。
「父は終戦の1年前にサイパン島で戦死した。父の慰霊巡拝に参加した。遺族を対象にした国のサイパン島の遺骨収集にも加わった。父や一緒に戦った兵隊さんを一人でも多く連れて帰りたいとの一心であった。熱帯の過酷な条件の中での遺骨収集には、日本青年遺骨収集団の大学生も参加してくれた。体中泥だらけにになりお骨を探した。小さなお骨は素手で拾い上げた。汗と涙で顔も真っ黒になりながら作業をしているときには、日本から観光で来ている若者の楽しそうな声が聞こえた。リゾート海岸のそばで、私たちはサンゴとお骨を区別しながら収集した。お骨は荼毘に付し、日本に連れて帰り、東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑に全て納骨したが、父のお骨は判明しなかった。来年で終戦80年を数えるいまだ父のような戦死者の、半分近くが海外で眠っている。沖縄や硫黄島でも遺骨収集は終わっていない。先の戦争の切ない残酷な現実である。」(勝又正敏 81歳(1943年<昭和18年>生まれ) 静岡県在住 朝日新聞2024年(令和6年)7月20日朝刊「声」)

終戦から71年経った平成28(2016)年、「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」が制定され、その第10条の規定に基づいて平成28年8月、一般社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会が、遺骨収集事業を行う法人として指定された。これ以降、厚生労働省社会・援護局は同協会とともに遺骨収集を実施している。
海外戦没者(硫黄島、沖縄を含む)は約 240万人にのぼる。2023年度(令和5年度)末の時点未収容の御遺骨112万柱のうち、約 30 万柱が沈没した艦船の御遺骨で、約 23 万柱が相手国・地域の事情により収容困難な状況にある。これらを除く約 59万柱の御遺骨を中心に、海外公文書館から得られた情報や戦友等からの情報を基に、具体的な埋葬場所の所在地を推定し、現地調査や遺骨収集を推進している。(2024<令和6>年5月 厚生労働省社会・援護局)
ここまで書いてきて、突然思い出したことがある。硫黄島で遺骨収集に携わったある男性の話。
兵隊はまだ戦っている。戦いは終わっていない。骨が風化して自然に帰ってしまわぬよう必死に抗(あらが)っている
発見したお骨がそう叫んでいるようだった。」】

ところで、第二次世界大戦で米国に叩きのめされ敗戦国と堕した大日本帝国は現時点で、米国にとってどのような存在なのだろうか。
国家主権とは「対内主権と対外主権の二つの意味を有する。前者の対内主権は、領域権・領域主権とも称され、国家が領域内のすべての人や物に対し排他的に統治を行ない領域を自由に処分することをいう。
後者の対外主権は、独立権とも称され、国家が対外的にいかなる国家にも従属せず国際法にのみ服することをいう。」(平成16(2004)年3月4日 衆議院憲法調査会事務局作成資料)
これを要約すると「国家が、国内的に最高の権力であるとともに、外部の力にも従属しないことを内容とする概念をいう。」(一般財団法人環境イノベーション情報機構 2009.10.15)
この概念に基づいて、現在の日本国を俯瞰すると何が見えてくるのだろう。
たとえば、戦勝国アメリカ合衆国の意向から離れた独自の外交を日本が展開し、米国の利益(In the Interest of America)に反する内容の協定や条約などを自由に締結することは可能だろうか。答えは否だ。
また、自衛隊の指揮命令系統においては、2025年3月24日、陸海空自衛隊の実動部隊を平時から戦時まで一元的に指揮する統合作戦司令部が発足した。この戦闘司令部は米軍の指揮下にあると言われている。
 したがって、少なくとも国家主権の内、対外主権は米国によって否定されていることになる。

それでは、国家主権を構成するもう一つの対内主権はどうか。
 日本国内の全ての人や物に対して排他的に統治をおこなうこと。
すなわち、国家が国内問題に関して最終的な決定権を持つことを意味する対内主権は、2022年(令和4年)7月8日11時31分、奈良県奈良市の近畿日本鉄道(近鉄)大和西大寺駅北口付近で、元内閣総理大臣安倍晋三が、参議院選挙応援演説中に暗殺された事件を奇貨として、日本国の対内主権の根幹に疑問の目が向けられ始めた。
「根幹」とは日本国の三権:立法・行政・司法の中枢を担う、「日本国籍を持つ人達」の正当性である。
In the Interest of Japan または for the benefit of Japan. すなわち、国家機関の中枢にいて日本国のあり方を決定する公務員(Government Official)が「日本の国益のために」、職務をつくすことは論を待たず当然のことだ。 
ところが、安倍晋三元首相暗殺事件を契機に、国会議員の多数に帰化人が合法的に進出し(その多くは与党の比例代表制で選出)、日本に帰化する前の母国(例として、朝鮮半島や中国)の利益のために、日本の時の政権の一部と結託してあるいは政権の中枢として策動していることが次第に明らかになってきた。有り体に言えば、日本国を乗っ取り消すことだ。
結論から先に述べると、過去の日本を事あるごとに侵略国家と断じて反省を強制して悔い改めさせようとする、いわゆる自虐史観を日本人にすり込み、日本人の意識を日中戦争時代の案件(南京事件、七三一事件など)に集中・閉じ込めることが中・韓両国共通の目的。それによって、日本人の「精神的盲目化」に成功した。(「精神的盲目化」:指弾される自国の「侵略行為」に目が奪われ、中・韓の現在進行形の「静かなる侵略」行為に気づかなくなること。すなわち、「歴史問題」が「目くらまし」に使われること)。
韓国の場合はキリスト教を隠れ蓑にしている。
【韓国の場合、旧世界基督教統一神霊協会(通称 統一教会):現在の世界平和統一家庭連合の教祖、故文鮮明とその配偶者で現在総裁の韓鶴子(1943年2月10日生。82歳)が首謀者。
この教団の最大目的が「国家復帰」。
教団の教えを広め、社会に影響力を及ぼすことで、日本などの国家を教団の理想に合致するように変革していくことが目標とされている。これを国家復帰という。
中国(=中国共産党単独支配の国)の場合:「超限戦」の手法で、日本国の政権中枢に侵入破壊し、日本国そのものを消滅させる。
超限戦とは、従来の戦い方、例えば戦車・ミサイル・火器(銃砲)・ドローン(drone:無人<殺人>航空機)に限定されない戦法のこと。
具体的には、人口構成の置換移民帰化人の導入)、伝統的な宗教や精神的価値観の破壊、日本国の法の不備をつくあらゆる作戦(内通者=間者=スパイの確保)など。「静かなる侵略」ともいう。】

以上から、
日本国が対外的にも対内的にも、完全な主権国家ではないことは明らかになった。
近隣諸国などから、日本は「アメリカの忠実な下僕あるいは傀儡国家」と酷評されている(→「日航123便墜落事件の真相」が淵源と言われている)。
「悔しいな!」。これが筆者の正直な気持ちだ。2025(令和7)年は、敗戦を迎えてから丁度80年。これだけの歳月が過ぎ去っても、この国は戦勝国アメリカの言いなりになり、内部は中韓に侵食されている。
日本国憲法の上位に位置していると言われている、後述の「密約」(→日本国憲法第81条)そして「日米合同委員会」にその要因をさぐることができるのだろうが、この足かせを解くには人格者でもあり勇者でもあった西郷隆盛(1828年1月23日<文政10年12月7日>- 1877年<明治10年>9月24日)のような「私」を捨て切ることのできる人物の出現なくしては不可能なのだろうか。

【余談:憲法第81条 (違憲審査権)「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」
「処分」とは、「公権力による個別的・具体的な法規範の定立行為をさし、行政機関の行為のみならず、立法機関や司法機関の行為、さらには裁判所の判決についても処分にあたると解するのが判例・通説である。」(辻村みよ子著『憲法 』 第2版 p513)
日本国政府がこれまで米国などと交わしたすべての「密約」や、日米合同委員会と結んだ「密約」は上記の「行政機関の行為」に当たり、憲法違反であり、無効である。】
 
この対外主権だけではなく、対内主権において主権が損なわれている明白な例が、在日米軍横田基地(旧多摩陸軍飛行場)や神奈川県の米海軍厚木基地に離着陸する米軍機などを管制する通称「横田空域」(正式には横田進入管制区)だ。これは地表から6段階の高度区分(最低で高度2450m<8000ft>、最高7000m<23000ft>)で立体的に設定された巨大な空の壁で、「羽田空港を使う民間機は、急上昇して横田空域を飛び越えたり迂回したり非効率的な飛行を強いられる。
発着便の混雑時には…ニアミスや衝突事故なのリスクも高まる。」「日本の領空なのに、日本の航空管制が及ばず管理できない。空の主権を米軍によって制限・侵害されている。一種の『占領状態』といえる。」「このような空域は異常で、同じ第二次世界大戦の敗戦国で、米軍基地が置かれているドイツやイタリアにもない。」(↓※ あきる野市 「横田空城と日米合同委員会の密約)。実質的に日本国憲法の上位にある「日米合同委員会」と「密約」が現在(と未来)の日本の姿を決定していて、現在、日本の空はすべて米軍に支配されており、日本の国土は米軍の治外法権下にあることなどについては、矢部宏治著『知ってはいけない』に分かりやすく詳細に解説されている。
日米合同委員会を廃止する以外に密約↑※を検索)を解消して現状を改める道はないだろうが、そのためにはどのような知恵が必要か。
遺憾ながら、忠実な羊でもよいとする人物が極めて多数いるが(主として、金額と条件次第では他国に魂を売る商人すなわち財界人や何らかの事由で弱みを握られた政治家)、その羊がほふ(屠)られる(比喩的意味において)ことは絶対ない、と言い切れるのだろうかどんなに肥え太っても羊は羊でしかない日本の国籍を捨て、その国の市民を名乗るのであれば、話は別だが。

画像:横田空域 平面図   

要拡大画像:横田空域 立体図
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観よ、この顔と眼光!貴方は何を感じますか。
コーデル・ハル Cordell Hull 米国務長官

日本を焦土化し2発の核爆弾をも使い完膚なきまでに破壊し尽くしたアメリカ。帝国海軍の暗号を解読し日本軍の作戦を見抜いたうえで、日本を挑発し見事に「先に銃をぬかせた」アメリカ。この味をしめたアメリカ。一国一国をこのようにして制覇していくアメリカ。世界征服に向かって。
次はどの国だとあなたは思いますか。

アメリカのその手法には、一つの共通点があります。
それは、かつてインドのムガル帝国を滅ぼしたヴィクトリア王朝時代の大英帝国 British Empire の手法です(ムガル帝国:Mughal 1526~1858)。
インド人どうしの対立を巧妙に利用し、インド人とインド人を戦わせたのです。結果として、イギリスはインドを植民地にし、1877(明治10)年1月1日ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることで、インド帝国が成立しました。

21 世紀の現代では、現在、進行しているロシアとウクライナの戦争が好例です。スラブ民族同士が争っています。(「争わされています」の言い方の方が正確かもしれません)。戦争が長引けば長引くほどロシアとウクライナは相互疲弊し弱体化し、そこにアメリカが入ってくるのでしょう。どのような入り方をして来るのかは、まだ分かりませんが。
東アジアの台湾・中国・日本も注意が必要でしょう。特に危惧されるのは(第二次)「日中戦争」です。日本が中国と戦うことは、アメリカのために戦うということに他ならないからです。
東アジア人種を相互に争わせて疲弊させ弱体化し、最後に漁夫の利を収めるのです。アメリカはすでに日本を手中に収め自由に動かしているので、その矛先がどこに向けられているかは自明です。
アメリカはかつてイギリスを本国とする13の植民地 Thirteen Colonies でした。大英帝国の遺伝子、とくにエリザベス1世の「遺伝子」を確実に受け継いでいます。

目的のためには手段を選ぶな。」エリザベス1世のこの言葉は、国家の繁栄のためには、その行為がたとえ道徳や法律に照らして不適切であっても 許されることを意味する。 Elizabeth I 在位1558年11月17日-1603年3月24日

 さて、1)の国民勤労報国協力令と2)の改正国民勤労報国協力令は協力(・・)であって強制力はなく、対象とされた女子の年齢も14歳以上25歳未満だった。

 しかし、3)の女子挺身勤労令には強制力があり、年齢も12歳から40歳の範囲に拡大されている。この女子挺身勤労令が1944(昭和19)年8月下旬に施行される約1か月半前の7月には、北マリアナ諸島サイパン島が潰滅(陸海軍合わせて戦死者約41,000人。民間人数百人自決)。さらに、サイパン島から南5㎞のテニアン島は8月の初めに壊滅(陸海軍合わせて死者8,010人)、同じく南に200㎞ほど離れたグアム島もテニアン島壊滅の約1週間後に米軍に占領された(陸海軍合わせて死者18,500人)。
 この結果、サイパン島から約2,400㎞北に位置する帝都東京は、このいずれの島からも5時間余りでB29による空爆が可能となっていた。
 参考までに、翌1945(昭和20)年3月26日に日本軍の組織的戦闘が終結した硫黄島は、サイパン島から北北西に約1,150km。小笠原諸島の南端にあるこの硫黄島から帝都東京の皇居までは、ほぼ真北に約1,220km(日本本土を爆撃した復路のB29からはおよそ2時間半の距離)。

Wikipedia

B29スペックデータ:
航続距離5,230㎞(爆弾4,5トン搭載時)、回航(Ferry)航続距離9,012㎞、最大爆弾搭載量9トン、最高速度575km/h、巡航速度467 km/h<戦闘機並みの高速>、上昇限度9,170m
出力2,200馬力<1,600kW>
発動機<エンジン>ライト R-3350-57「デュプレックスサイクロン」ターボスーパーチャージャー付き空冷星形複列18気筒×4基] (出典:航空軍事用語辞典)

ターボスーパーチャージャー付きエンジン:エンジンの出力を上げるための手段としてコンプレッサーで圧縮した高い酸素濃度空気を燃焼室に送る方式では、①排気ガスを利用して回転するタービンをコンプレッサーの動力とするターボチャージャーと、②ピストンの往復運動を回転運動に変えるクランクシャフトの回転を動力とするスーパーチャージャーがあり、用途に合わせて使い分けられている。また、①と②を同時に備え回転域によって使い分ける高出力エンジンもある。B29のライト R-3350-57「デュプレックスサイクロン」は名称からしてこの③のタイプだと思われる。
 高出力エンジンだったが、ターボチャージャーの場合過熱しやすくエンジンの素材に可燃性の金属を使っていたこともあって、エンジン火災が多発したと報告されている。】

【要拡大画像】B29 出典:乗りものニュース

 米英との戦争が苛烈化し男性が戦場に狩り出された結果、軍事用の物資などを製造する重化学工業の職場では男性の労働力不足が深刻化してきた。そのため、それまで繊維産業などで働いていた女性労働者を男性の代替労働力として軍需工場で徴用するようになった。
 女子勤労挺身隊は勤労動員学徒と共に、まさしく「銃後」を体現した存在だった。日米戦の行方を決定づけたのは、グアム島を含むマリアナ諸島の喪失だといわれている。戦局に暗雲が立ち込め、日本の中枢は国の行く末を察し、一般人は大きな危惧を抱いたが、まだ「神風」が吹くと信じている臣民が多勢だったという。

 次の手記は東京の中島飛行機武蔵製作所に女子挺身隊員として動員された田中光さん(上越市出身。昭和2年生まれ)の体験談。中島飛行機は陸海軍の数々の名機(九七式艦上攻撃機・一式戦闘機「」・四式戦闘機「疾風」など)と発動機(=エンジン)(零式艦上戦闘機「零戦」・一式戦闘機「隼」などに搭載した「」など)を開発・生産してきた。米軍が陥れたサイパンから飛び立ったB29戦略爆撃機が日本を初めて空爆したとき、その最初の標的が中島飛行機だった。

昭和19年3月18日、女子挺身隊員として、中島飛行機武蔵野製作所へ行った。女学校を卒業して3日後の出発であった。級友の大半は挺身隊員として故郷を後にした。私は銀行勤務が内定していたのに、直接国のために働きたいと考え挺身隊に参加した。出征兵士と同様に村民多数の人々に、軍歌「露営の歌」で送られての出発だった。友達と汽車に乗り上野駅へ、女子寮の寮父さんが迎えに来てくれた。工場と女子寮は東京都三鷹にあった。翌日から適性検査が2日間、私は大きな旋盤に配属された。1ミリの10分の1の誤差に気を配る仕事、ねじ切りをしたり大変むずかしい仕事の内容であった。機械操作の仕方、マイクロメーターの使い方など、毎日が勉強の連続で充実していた。友達は棒材を切断する仕事、荒けずりや穴あけの仕事と油にまみれて挑戦していた。工場の機械は24時間、休みなく稼働している。女子挺身隊3交代勤務、深夜勤の時は翌日が休日となり、体が休めて嬉しかった。 寮は1部屋5人、仲良く過ごした。寮には、長野、水戸、秋田は2校、東京中野、自由学園の生徒、新潟は佐渡と私達で総勢80人くらいはいた。食堂と風呂は別棟にあり、産業戦士と言う事で食事は優遇されていると聞いたが粗末であった。量だけは男子と同様だったので多かった。布団と作業服上下2枚ずつ支給され、毎日その服を着て、頭には日の丸と神風と書いた鉢巻をしめての作業、真剣そのものだった。ある休日、自由学園のリーダーが田無にある学園を見学に誘ってくれたので喜んで参加した。行って見て驚いたことは、戦時中なのに、のびのびと自由な教育を受けている子ども達がいた。羽仁モト子の経営で話も聞いたが、びっくりする事ばかりで、これが日本国かと思った。終戦後、私の生き方に指針を与えてくれる事になろうとは、その時は気付かなかった。秋になって仕事もよく覚え能率も上がってきた矢先、11月23日、敵機B29が中島飛行機工場を爆撃してきた。本土攻撃の第一弾だった。武蔵野工場は、3階建が七棟、平屋建が数え切れない程たくさんあって、10,000 メートル上空から見ると1棟が畳1枚の大きさに見えると言われていた。2棟と3棟の間に爆弾が落ちた。ひどく飛び散った。私は、2棟2階の奥の方で階段から遠い位置の窓際だった為、爆風とガラスの破片が飛んできて、生きた心地はしなかった。もう駄目かなとも思った。急いで防護頭巾をかぶり、職工に手を引かれ地下道へと走った。地下道は幅10センチくらいの大きなひび割れが出来ていた。友達は私の事を心配していたと言う。この空襲は突然きたので多くの人が死んだが人数は発表されなかった。警戒警報のサイレンと同時にB29は工場の真上に来ていた。工場は再三にわたって爆撃され、女子寮もやられてしまった。仕方なく男子寮の空部屋に移動した。断水の為、トイレは汚れ放題、風呂にも入れずシラミがわいた。困ったがどうする事も出来ず衣類を外へ持ち出してふるった。セーターにくい込んでいるシラミには手こずった。日ましに爆撃は激しく地下道は危険な状態となり、20分くらい走った所にある防空壕へ避難した。山を掘りぬいて作った防空壕は大きかった。3 本あって1号は女子挺身隊、2号は男子学徒、3号はベテランの職工だった。2号に爆弾が落ちて学徒が大勢死亡したが、数はわからなかった。また命拾いをして友達と手を取りあって喜んだ。もう東京での生産は無理と言うことで 2 日間の休日があった。三日目にトラックに乗せられ到着した所は河口湖の湖畔、1月の始めであった。河口湖は氷で一面の銀世界だった。ブドウ酒工場の大きな樽を外に出し、機械が据え付けられていた。わずか2日間ですごいスピードの移転であった。4日目より作業開始、寒かったが全員生産意欲にもえていた。寝泊りは民家に5人7 人と分かれて生活した。食事は全員で別棟、当地は富士山の火山灰で水田が無く、麦、トウモロコシ、大豆が主食でコーリャンも時々食べた。米のご飯がほしかった。毎日、美しい富士山を眺め、麦畑を見ながら工場へ通った。朝昼夕と富士の色は刻々と変わって美しかった。戦争の事など忘れて見とれた。東京は毎日のように爆撃されていた。B29は富士山を目標に飛んで来て富士の真上にくると向きを変えて東京へ、30分くらい経過すると東京の空がだいだい色に染まる「ああ…」これが戦争なんだと思った。東京は焼野原になったと情報が入った。戦争はつらく悲しくいやだ。河口湖工場では、トランスが焼け漏電さわぎがあり、職工が機械に吸いつけられ、あと数秒遅れたら工場全員が感電の憂目に遭うところであった。この時も助かった。幾たびか命拾いをして、飛行機の部品作りに熱中した青春であった。終戦となり挺身隊解除、帰郷の途中、笹子駅で汽車の脱線事故があり、復員軍人たちが死傷した。ここでも命を頂き8月27日、無事家に帰った。両親も妹たちも大変喜んでくれた。家族の笑顔を見ながらの赤飯はとても美味しかった。最後にこの命がけの挺身隊の体験を通して忍耐、努力、協力、友情などの心を学んだ。一緒に挺身隊へ行った友達は3人もあの世へと旅立った。私はこうして心身共に元気で体験した事が書けて幸せである。(この日の死者は57人、負傷者は75人。1945年8月8日まで執拗に行われた計9回の空爆による死者は220人に及んだ。資料提供:「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」)
 次の資料は中島飛行機について。

【昭和13年5月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され昭和16年11月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った。昭18年10月時局の要請により両製作所を併せて武蔵製作所と呼称する。
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は5万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった。米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし昭和19年11月24日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が命中し二百余名の殉職者と五百名を超える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった。(後略)
中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会】 

【要拡大画像】B 29 Lined Up before Sortie Issely Airfield on Saipan mid 1945
This file is a work of a sailor or employee of the U.S. Navy, taken or made as part of that person’s official duties.
訳:出撃前のB29
1945年半ば、サイパンのイセリー飛行場
このファイルは、アメリカ合衆国海軍の水兵又は職員が、公務の一環として撮影又は作成した著作物です。
【B29は両翼に計4発のエンジンを搭載している。その姿を目視確認できる機体が、画面左下端に1機、画面右下に6機ほど散見される】

 陸軍獣医資材本廠をきっかけとして、引揚寮、女子勤労挺身隊、日中戦争そしてサイパン・B29、中島飛行機武蔵工場と戦前の時代を垣間だが旅してきた。
 思いがけない展開に筆者自身驚きを隠せない。
 実は、中島飛行機武蔵製作所は自宅のある小平市の小川から自転車でおよそ40分の近さにあり、跡地の隣接道路を車や二輪で昔からたびたび走っていた。アルバイトで通った墨田川のほとり中央区築地の魚河岸に行くにはこの道が一番速かった。当時22歳だったので、53年も前からである。通るたびに「なんだろう、向こうまで続いてるこの塀は」と疑問に思っていた。
 この塀に沿ってしばらく進んで右折すると、成蹊大学の西側に出る。住宅街である。直進すると五日市街道にでて井の頭通りに抜けるが、途中ずいぶんと賑やかな音楽が聞こえてくるアメリカ風の家があった。気になっていたので一度様子をうかがったことがある。すると、何組ものアメリカ人のカップルが日本人が演奏し(バイオリン)、歌うカントリー&ウェスタンミュージックにまかせて、大きな体でぐるぐる回って踊っているではないか。半世紀以上も前の光景だが、その一部始終が脳裡に浮かんでくる。
 私の家は小平市といっても立川市との境に近い西部なので、市境の小川町1丁目や中島町には米軍立川基地で働くアメリカ人の軍人・軍属が大勢住んでいた。だから、エンジェルハイツなどという名のアメリカ風の住宅の区画が少なからずあったのは分かるが、ここは成蹊大学や知る人ぞ知る成蹊高等学校に隣接する閑静な住宅地だ。そのど真ん中にアメリカンスタイルの家屋があり、昼間から辺りかまわず生バンドでカントリー&ウェスタンダンスを踊っている。私はそのとき、「自分は今どこの国にいるんだろう」と錯覚するほど驚いた。
 それ以来、ずーっと不思議に思っていた。「あの一角は一体なんだったのだろう」と。この『国立物語』を著すまで。あの塀の内側が、なんと中島飛行機武蔵製作所だったとは。戦後8年経った1953(昭和28)年に国際基督教大学(ICU)が三鷹市大沢3丁目に開学したが、そこは中島飛行機の研究所があった場所だったのだ。そして、つぎの記事で長年の謎がほぼとけた。
 「改修された武蔵製作所西工場には、立川基地を中心に横田・府中基地に勤める将校とその家族が入居を開始、650世帯およそ2300人が暮らす小さなアメリカが誕生した。内部には病院、アメリカンスクール、映画館、ショッピングセンター、レストラン、理容店、クラブなどがあり一つのコミュニティーを形成していた。」出典:『武蔵野市ホームページ』
 「中島飛行機 武蔵製作所の西工場は、戦時中の空襲により被害を受けていたが、1953(昭和28)年に米軍の住宅として改修、翌年入居が開始されグリーンパーク米軍宿舎と呼ばれるようになった。グリーンパーク米軍宿舎は1971(昭和46)年に全面返還が決定、1973(昭和48)年に全面返還された。返還決定以降、跡地利用の検討が行われ、1977(昭和52)年に米軍宿舎の建物を解体、1989(平成元)年に、「都立武蔵野中央公園」が開園した。」出典:『この町アーカイブズ』
 現在、跡地にはNTT武蔵野研究開発センター(住所:武蔵野市緑町3-9-11)や武蔵野市役所、そして東京都立武蔵野北高等学校(住所:武蔵野市八幡町2丁目3−10)などの建物。その700メートル東、五日市街道沿いに、安倍晋三元首相が法律を学んだ成蹊大学がある。

余談:京都大学法学部出身で裁判官を務めた後、法務省司法試験考査委員などを歴任して定年まで成蹊大学法学部に奉職した方がおられる。
木村静子先生である。21歳をむかえる1948(昭和23)年に高等文官試験司法科(現在の司法試験)に合格した逸材である。
筆者の大学は中央線の御茶ノ水駅にあったので帰りに吉祥寺駅で途中下車し、先生の刑法講義を拝聴しに成蹊大学を訪れたことが何回かあった。落ち着いていて物腰の柔らかい、粘り強く理路整然と話しをされる先生という印象がのこっている。
この木村先生の京都大学時代の演習指導教授が、1933(昭和8)年4月に起きた瀧川事件(京大事件)の瀧川幸辰(たきかわ ゆきとき)京都帝国大学法学部教授で、この事件は前年1932年の10月28日に中央大学駿河台講堂で開催された刑法学講演会で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的であるとして、文部省や司法省内で問題化したことに端を発している。
結末は、瀧川教授の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、内務省は出版法第19条により発売禁止処分を下し、文部省は瀧川教授の休職処分を強行した。
この処分は思想弾圧が社会主義思想抑圧から自由主義思想抑圧まで一気に拡大される出発点となり、学問の自由や大学の自治は失われた。以後、自由主義思想や学問の自由,大学の自治に対する攻撃は強まり、国家に批判的な態度をとる学者たちの思想内容に及んでいった。
この瀧川事件が起きる2か月前の1933(昭和8)年2月、『蟹工船』の著者で日本共産党党員の小林多喜二氏が、警視庁築地警察署の特別高等警察により拷問死を遂げている。
なお、瀧川教授が中央大学で行った講演のおよそ8か月前の1932(昭和7)年3月1日は「満州国建国宣言」の日で、2か月半後の5月15日には「五・一五事件」が勃発している。
瀧川事件は日本社会が多様性を失い、軍事国家一色に染め上げられていく前夜を象徴する事件だった。】

 成蹊大学(東京都武蔵野市吉祥寺北町3丁目3番1号)

 体験談中の自由学園(東京都東久留米市学園町1-8-15。元中島飛行機武蔵製作所から北北西に4㎞の地点)では、生徒の工場動員により女子部生徒4名を失った。すなわち、1944(昭和19)年11月4日に動員先(日立航空機立川発動機製作所)へ向かうバスの事故で3人が死亡(重傷者あり)、同年12月3日の中島飛行機武蔵製作所空襲では1名が犠牲になった。なお、戦争で男子卒業生11名が亡くなっている。
 武蔵工場の跡地から西へ500メートルの武蔵野女子学院中学校・高等学校の前身だった武蔵野女子学院高等女学校 5年生の4名は、おなじく1944年12月3日、武蔵製作所空襲で直撃弾をうけ即死している。
 罪などひとかけらもない純真な生徒たちが、これからやりたいことがいっぱいあるのに、それを残したまま冷たくなっていく。このような痛ましいことが起きないようにすることが、大人という人間に与えられている使命だと思うのだが。

画像は一式戦闘機二型 (キ43-II) 「
スペックデータ
全幅 10.837m、全長 8.92m、全高 3.085m正規全備重量 2,590kg、発動機 ハ115 二式1150馬力発動機(離昇1,150馬力)、プロペラ ハミルトン・スタンダード可変ピッチ3翅 直径2.80m、最高速度 576km巡航速度 355km/h/4,000m上昇力 5,000m/5分30秒(一型)・5,000m/4分48秒・8,000m/11分9秒(二型)、5,000m/5分19秒・8,000m/10分50秒(三型)、航続距離 3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)、武装 機首12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各270発)、爆装 翼下30kg〜250kg爆弾2発ないしタ弾2発.
中島飛行機で設計開発された隼は二型の量産時点から立川飛行機でも生産され、次の三型の全ては立川飛行機で移管生産された。一型から三型までの全生産数は5,751機。二型の一部と三型の全機の生産に携わった立川飛行機の位置は画像A・C・D参照】

余談:隼の設計には、空気力学の技師として糸川 英夫(1912<大正元>年7月20日- 1999(平成11)年2月21日)が携わっている。
空気力学は流体力学の一分野で、物体が空気や他の気体の中を運動するときの気体の流れや、気体が物体に及ぼす力の状態を研究する分野。
糸川英夫の専門は航空工学や宇宙工学で、かつて有名なペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し「日本の宇宙開発ロケット開発の父」と呼ばれている。
まだ記憶に新しいが、鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所から2003(平成15)年5月9日に打ち上げられた小惑星探査機(工学技術実証探査機)「はやぶさ(MUSES-C)」は、2005(平成17)年11月20日・26日と2回にわたり、地球から約3億km離れた小惑星「イトカワ Itokawa(平均半径約160m、長径500m )」の表面の詳細な観測と軟着陸(降下・接地)に成功した。
はやぶさはこの小惑星の表面の岩石試料を回収した後、2010(平成22)年6月13日、「イトカワ」の表面物質搭載カプセルを地球に持ち帰ることに成功し、その使命を終えた。大気圏でバラバラに分解しながらも光を放ちながら燃え尽きていくその映像は、いまでも記憶にまざまざと蘇るのではないだろうか。

戦闘機とロケットの両方の分野で著名な糸川英夫に縁の深い戦闘機『隼』にちなんで命名された小惑星探査機「はやぶさ」と、ロケット開発のパイオニアで一世を風靡した糸川博士の名を由来とする小惑星イトカワ。一式戦闘機の開発に糸川英夫がかかわっていたことを知っていた人達は誰しもがそう思ったに違いない。事実はどうか。
「はやぶさ」の名の提案者の一人である川口淳一郎宇宙科学研究所教授いわく、「小惑星のサンプル採取が1秒ほどの着地と離陸の間に行われる様子をハヤブサが獲物を狩る様子に見立てた案であった。」。
「獲物を狩るハヤブサ」に因む小惑星探査機「はやぶさ」か、それとも一式戦闘機」の小惑星探査機「はやぶさ」か。気持ちとしては…
いずれにしても、はやぶさが隼を終戦の昭和から、65年経った平成の時代に再び飛翔させたことには、だれも異論はないかも知れない。】 

【要拡大画像】画像E
中島飛行機武蔵製作所(黄枠内)(空爆前)
撮影日:1944(昭和19)年11月07日 撮影機関:陸軍 

【要拡大画像】画像F
(画像Eの黄枠内拡大画像) 
中島飛行機武蔵製作所 (空爆前)
撮影日:1944(昭和19)年11月07日 撮影機関:陸軍 

【要拡大画像】画像G 
中島飛行機武蔵製作所(空爆後)
撮影日:1947(昭和22)年7月09日 撮影機関:米軍 撮影高度:1524m

 自由学園(東京都東久留米市学園町1丁目8−15)          Wikipedia

大正時代の中島飛行機製作所本社(群馬県新田郡尾島町(現:群馬県太田市))出典:パブリックドメイン
(Public domain)

余談:その後の中島飛行機の歩み

日本が無条件降伏をした後、中島飛行機はこれまでどのような足跡を残してきたのだろうか。

中島飛行機はエンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであり、日本軍向けに多くの軍用機を開発・製造した。
1945年(昭和20年)日米戦に敗北すると、連合国軍占領下の日本ではGHQ/SCAPの航空禁止令の布告により航空機の研究・設計・製造は全面禁止された。航空機メーカーは解体され航空会社も潰され、大学の授業から航空力学の科目が取り除かれた。
戦前の航空機資料も全て没収され、日本に残っていたすべての飛行機は一部がアメリカ軍をはじめとする連合軍に接収されたほかは、すべて破壊された。GHQ/SCAPは、日本の重工業をすべて再起不能にした後、日本を農業小国にしてアメリカに経済依存させ続けようという方針であった。
〘GHQGeneral Headquarters):「総司令部」SCAPSupreme Commander for the Allied Powers):「連合国軍最高司令官」GHQ/SCAPは、第二次世界大戦後の日本占領を統治した連合国軍の最高司令官・マッカーサー元帥率いる機関

戦後は富士産業と改称し、1950年には12社に解体されたが、うち5社出資による新会社・富士重工業(現在のSUBARU)が1953年に発足した。1958年の「スバル360」(愛称は“てんとう虫”)や同じく1958年のジェット練習機・富士T-1、1961年軽商用車「スバルサンバー」が成功を収めた。
T-1は、日本で開発された亜音速ジェット機。愛称は初鷹(はつたか)。航空自衛隊において、レシプロ機による初等訓練を終えたパイロットがつづいて訓練するための中等練習機として用いられた。第二次世界大戦後初の実用国産飛行機であると同時に、初の国産ジェット練習機でもある。
 参考文献:桂木洋二『歴史のなかの中島飛行機』(グランプリ出版 2002年)】
↓【画像】富士T-1初鷹866号機 (画像提供:スカルショットさん 2005年10月撮影)

国立(くにたち)に戻る。

 7年前の小著『モンスター津波と共に生きる!』の「はじめに」で米寿をお祝いした高山秋雄氏は、新一年生の国立二小時代から新しく開校した国立四小までお世話になった恩師である。国分寺市戸倉2丁目の日吉(ひよし)の交差点から国立駅に向かって直進し坂をくだると信号がある。この信号を左折すると左側に大きなマンションが建っているが、そのころは木造二階建ての商店などがあって、先生はこの建物の二階に間借りしていた(後掲画像H)。国立駅からは歩いて2,3分くらいだった。
 夏休みになると友達と二人で、泊りがけでおじゃましたことがある。友達と一緒に寝ているところを先生は写真に撮ってくれた。二人のあどけない寝顔がみごとに写っていて、いまでも大切に保存してある。
 屋台を引いていた母が短期間だったが、立川の高松町で小さな食堂を開いたことがあった。よく食事をしに来てくださったが、カウンターで食事をしながら母と盛んに会話をしている光景が目に浮かぶ。結婚式にはお住いの町田から小平の式場まで来てくださり、小学生時代の懐かしいお話を賜った。最後まで「のりお、のりお」と呼んでくださり、決して忘れることはできない。感謝の気持ちでいっぱいである。
 先生は教師として奉職する一方、その生涯を精神障害(碍)者とそのご家族の生活の向上にも捧げた。このことは、東京都精神障害者家族会連合会(東京つくし会)会長および昭和大学付属烏山病院患者家族会(あかね会)会長というその当時の肩書に象徴されている。
 そのご活躍の記録を拝読して驚きを感じたことがあった。それは国民の福祉に向けた行政の姿勢である。「私たちの要望は黙っていたら何も改善しない。」。先生のこの言葉にすべてが凝縮されている。
 当時、精神障害者は身体障害者および知的障害者と同等の福祉をほとんど享受していなかったのである。今でこそ精神保健福祉手帳の発行は常識だが、その当時は身体障害者手帳と療育手帳<知的障害者>の2種類しかなかった。
 理由は?と聞くと、「身体、知的障害者の親たちはどんどん要求を言ってくるが、精神の人は何も言って来ないからだ。」という(出典:新宿フレンズ 講演会抄録 2004.11.1)。
 「行政の役割とはいったい何か」という本質論に迫り、示唆に富む回答だ。
 そして、この行政の姿勢が先生を動かした。
 「精神障害者も身体、知的障害者と同等の福祉を目指す。具体的には、 精神障害者のための施設の拡充、福祉手当の充実、偏見等の社会的理解の改善などだ。しかし社会的運動なくしては、行政を動かすことはできず精神障害者の生活の向上はない。」
 この「社会的運動」の結果、1995年(平成7年)に精神保健福祉法(正式名称:精神保健及び精神障害者福祉に関する法律)が改正されて、同法第45条の規定により精神保健福祉手帳の交付申請が初めて認められるようになり、精神障害者の手帳制度が発足した(令和3<2021>年度の精神保健福祉手帳発行数:1,263,460 厚労省ホームページ)。この障害者手帳の創設は、精神障害者とそのご家族の生活向上に貢献した高山先生の功績のほんの一例に過ぎない。
【「社会的運動」の一例:精神障害者共同作業所設置数の推移:昭和51年小平市小平あさやけ第2作業所設置第1号、昭和56年7ヶ所、昭和59年20ヶ所、昭和63年70ヶ所、1995平成7)年205ヶ所
 人生の範たる行動指針を授けていただいたのりおは幸せ者だ。 
 高山秋雄先生は3年前の2020(令和2)年1月6日、92歳の天寿を全うされた。「初めてお会いできたのは、先生が27歳のときでした。そして、私が小学校に入学したときからこの年まで、65年に亘り暖かく見守り続けてくださりました。
 父になかなか職が見つからず、貧しい時がありました。満足な服もなかったとき、先生は上下のすてきな通学服をプレゼントしてくださりました。1年生の時だったと思います。私の目は輝きました。うれしかったのです。そのときの私の喜びが、65年を経た今この時、鮮やかに蘇ってきます。
 またいつか必ずお会いできる日が来ることを楽しみにしています。
 先生、本当に本当にお世話になりました。有難うございました。」
なお、奥様の永子様、ご子息はご健在であり、いつまでもいつまでも健やかに過ごされるようお祈り申し上げたい。

東京都北多摩郡国立町立国立第二小学校入学式
1955(昭和30)年4月
【前列中央に高山秋雄先生。向かって先生の右隣り2人目が私(大きな名札を右胸につけている)。最後列、向かって左から8人目の男性が私の父。】

 その当時、国立駅のホーム上屋(うわや)の天井には、季節になるとツバメがやって来てそこかしこに巣を作り、ツバメの巣だらけだった。駅のホームは国分寺から国立にかけての特異な地形のため地上からの高さがあり、三角屋根でできた駅舎のすぐ東側には、ホームから地上にかけて延びる金属製のすべり台があった。当時、毎日新聞など大手新聞社で印刷された新聞はトラックではなく列車が輸送する時代だったのだろう。
 列車が駅に着くと新聞輸送専用車両から新聞の束が次々と降ろされ、この銀色に光るすべり台から勢いよく地上に滑り落ちていった。僕ら子供たちはこの大きな落差のあるすべり台に目を付けた。スリル感と爽快感がたまらず何度もホームから地上へすべって遊んだものだった。しかし、駅員の方に叱られた記憶は不思議とない。大目に見ていてくれたのかもしれない。

 一橋大学国立キャンパスは国立駅から南に真っすぐ伸びる大学通り(画像A・H画面右下の縦の直線)を挟んで西キャンパスと東キャンパスに分かれている。このキャンパスも僕らの遊び場だった。兼松(かねまつ)講堂の裏手一帯には、手入れが行き届いた、幹が太くて背の高い立派な松林が広がっていた。かくれんぼ(隠れん坊)にはうってつけの場所だ。松の木に身を寄せて、語り合っている大人(今思えば、一橋大学の学生)の男女を時々見つけた(「見つけてしまった」という表現の方が正しいか)。子供からすれば異質な世界なのだろう。「ここは僕らの来るところじゃないな」、そう思い少しずつ遠ざかるようになったが。

一橋大学 兼松講堂   Wikipedia

Ⅳ.【なぜ異界の扉は開いたのか】 

 小学生時代を過ごした懐かしい国立の思い出や、この時まで気が付かなかった大切なこと、そして人はすべて過去とよばれている歴史と現実の連続のなかで結局は生き続けていることなどに思いを馳せてきた。そろそろ、『異界紀行』のプレリュード「国立物語」の幕が下りようとしている。そして、もう一つの真実の世界、すなわち「異界」のドアが開くそのときが迫ってきた(「世界」は仏教用語「世」は過去・現在・未来の3世を、「界」は東西南北上下の空間を意味するという)。
 「もう一つの真実の世界」の「真実の世界」とは、観念論の世界ではなく、ましてや仮象・虚像の世界でもなく、この世界と同じように厳然と存在する空間のことで、生身の体でそのような現象を確信が持てるまで体感した者が確知している世界である(「観念論」:われわれの精神的存在だけをこの世界の本源的な存在とし、外界は、われわれが自己の精神的存在すなわち観念で認めた、仮象(・・)(・)世界(・・)にすぎないとする認識論」)。
 しかし、理由は今のところ不明だが、私たちになかなかその姿をみせようとしない。でも、ときどき思いもよらないとき、五感で感知できる現象を伴ってうっかり(・・・・)とあるいは積極的に眼前に現れることがある。存在は疑うべくもないが、この世界とは大分その様相を異にしている。それで、「異界」と名付けた。
 その一つの物理的現象である、写真にうつり込んだある意識体については、すでにこのプレリュードの中で一つお伝えした(「意識」:自分が置かれている状況や周囲の状況などを認識できている状態。「意識体」:“意識をもっている”と我々が実感するもの)。 

【要拡大画像】画像H
撮影日:2019(令和元)年10月13日 撮影高度:3154m 撮影機関:国土地理院 

 これまで日本国内では2歳から15歳までに4度、アメリカでは47歳のときに1度、命にかかわる事故からどういう訳か助かってきた。とうの昔にこの世界から去っていても全然おかしくないこの私がまだ生きている。
 母の胎内にいたときの「チャポーン、チャポーン」という音が聞こえてくる中で、浮いて静かに揺れている実感」とそのときの記憶から数えて今年(2023<令和5>年)で76年が経つ。その年月を重ねる中で、これまで遭遇してきた「意識体」の存在を早く人々に伝えなければならないという思いが年々強くなってきた。
 少なくとも日本の社会が、戦勝国アメリカの強力な影響力(強制力)の下に「人の命を大切にする心の重視」すなわち「思いやりの精神」から、あたかも「自我の私欲の充足のために、他者は存在する」かのごとく我欲を肯定する、いわば搾取自由主義利潤追求至上主義)とも言うべき価値観の方向へ法制度的に舵を切ったことで、この思いは決定的となった(→「舞浜会議」の「今井・宮内論争」。舞浜会議の骨子は資料3として章末に掲載した。)。ただ、その存在を公表する手段や「きっかけ」がつかめずに歳月が流れていた。

余談:小泉純一郎 政権(2001<平成13>年4月26日~2006<平成18>年9月26日)の経済政策は新自由主義(neoliberalism、ネオリベラリズム)の典型だった。
新自由主義は国による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義などを重視するもので、小泉政権は構造改革による経済財政諮問会議規制改革会議(議長:宮内義彦)らの政策提言により、2004年の労働者派遣法の改正によって派遣禁止業務を根本的に緩和した。
1999(平成11)年の大改正では、禁止された業務を除いて原則として派遣を行うことが自由となり、派遣可能業務の範囲が大きく拡大していた(労働者派遣法の正式名称:「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律」)。
この2004年の労働者派遣法改正で、これまで禁止されてきた製造業への労働者の派遣が認められるようになったのである(構造改革の惨状については→拙著『歴史教科書問題』p45~46)。
製造業の対GDP割合は2005年度で21.3%を占め日本経済を支える基幹産業の一つであり、2021年度においても20.6%で依然として我が国経済を支える中心的な産業とし ての役割を果たしている(GDP:Gross Domestic Product=国内総生産)。
労働者の派遣をこの基幹産業の製造業にまで拡大してからだった。自死の激増特殊詐欺事件被害額4412,370(2023.1~2023.12)、大量殺人事件などの凶悪犯罪が象徴する国民の精神的荒廃が顕著になったのである。
日本人は手先が非常に器用だ。幕末に日本に来航し開国に成功したペリー提督も驚き舌を巻いたほどである(→ペルリ提督『日本遠征記』序文)。
技能五輪国際大会でも金メダル獲得数で上位を維持している(2022年は3位)。日本人はそれを誇りに思っている。手先の器用さを生かすことのできる業種は主として製造業だが、実質的に最後の砦ともいえるこの製造業に派遣労働を小泉・竹中・宮内路線は導入し給与体系を基本給から時間給にした(→章末「舞浜会議 今井・宮内論争」の第3グループ)。
これで、労働者のプライドはズタズタに引き裂かれた
教育コストの削減、キャリア教育研修などの実施コストの削減、福利厚生費や社会保障費などのコストの削減、さらに従業員管理に関わる事務手続きなどの労務も抑えられ、企業側は業務効率を大幅に改善することが可能となった。

新自由主義の弊害が目に余り修正の必要に迫られた国は、いわゆる正規雇用労働者と(派遣労働者を含む)非正規雇用労働者との間の不合理な待遇(格差)の解消を目指し、2018(平成30)年4月に労働者派遣法を改正(2020<令和2>年4月1日施行)して「同一労働同一賃金」政策を開始した。
この改正法は、派遣先から派遣元事業主への待遇情報の提供義務や、労働者派遣契約を締結するに当たり、派遣先が予め派遣元事業主に対し比較対象労働者の賃金等の待遇に関する情報を提供する義務などを定めたガイドラインである(ガイドライン:指針・目指すべき方向性)。
 そのため、罰則がなく先行きは不透明で、端的に言えば企業側の非正規労働者に対する恩恵(施し)に期待する他はない。しかし、「同一労働同一賃金」政策の行き着く先は、正規雇用労働者と(派遣労働者を含む)非正規雇用労働者との間の待遇差別の解消のはず。ならば、現状を2004年の労働者派遣法改正の前に戻し、少なくとも製造業への派遣労働は、後述するように憲法違反であって早急に禁止すべきだ。

 少し車が動いて私の車が信号機のない横断歩道の手前にさしかかったとき、前のトラックが止まったので私もそこで車を一時停止させた。そのとき道路の左側を後ろから歩いてきた子供がいた。赤いランドセル(だったと思う)を背負っていた小学校5、6年の背がすらっとして品性のある顔立ちの子だった。その女の子は横断歩道の左端で一度止まってこちらを見つめた。目と目が合う。「渡ってもいいですか」と無言で聞いている。私は間を置かずうなずいた。そのとき私は反対車線からこちらの方に向かってくる車両の有無を確認せずに、首を縦に振ったのだった。
 私の前方はトラックのため相変わらず見通しがきかない状態が続いていた。その子は私の合図で道路の安全を確信し、うなずいて私に一礼すると横断歩道をゆっくりと渡りはじめた。女の子がトラックの後部を通り過ぎて反対車線側に1m少し出た、とそのとき、反対車線をこちらに向かって走って来る白っぽい乗用車がトラックの陰から見えた。速度は40㎞くらいだっただろうか。私の運転席とその車との距離は、10mは切っていたと思う。私は「あっ」と叫び声をあげ、その子に大声で知らせようとしたが窓が閉まっていて声は届かない。窓を開ける時間はない。その車を運転していた人は短い髪をした4,50代の女性だったが、車の速度をまったく落とすことはなかった。そして、私の右斜め前方数メートルの横断歩道上から、その子はまるで風のように私の視界から音もなくサーッと消えて行った。

 そのころ、渋滞していた車はちょうど動き出していた。ただちに適当な場所に車を止めて現場に戻り、女子児童の救護などいろいろとできたはずだった。しかし、戻ることはなかった。そして、現実を直視することから私は逃げた。43歳寸前の大の男が逃げたのである。頭の中で声がさかんに響く。「目と目が合ったからといって、なぜ急いで首を縦に振ったのか。トラックのため右前方の見通しがきかないなら、なぜ窓を開けて顔を出し、対向車線の安全を確認してから、女の子に合図をしなかったのか」。
 気がつくと、神社かお寺の境内にいた。それほど、現場から遠く離れていなかったように思う。しかし、そこが一体どこなのか思い出せない。この年の1月、私は10年つれ添った妻との離婚が成立し独 り身に戻っていたが、この時ほど、妻の心の支えが必要だった時はなかった。自分がこれほど弱くてもろい人間だったことに初めて気づき、今まで自分を支えていたあらゆるものが、もろくも崩れ消え去っていったからだった。気がつくと、一心不乱に深い祈りを捧げている私がいた。 
 「神様、お願いがあります。私の命を差し上げますから、あの子の命を助けてあげてください。でも78歳までは生きさせてください。その後の命は要りません。ですから、あの子の命を救ってください。お願いします。」。
 そう繰りかえし祈った。それにしても、ずいぶんと虫のいいお願いだと自分でも思う。普通なら「神様、お願いがあります。わたしの命と引き換えに、あの子を助けてあげてください。お願いします。」とすべきところだ。そう言いかけたことは事実だが、なぜか思いとどまった。そして条件付きのお願いになったのである。42歳の男が36年も先の、生死も全く不明な年齢を口にしている。なぜそうなったのか。なぜ78という数字が口からでたのか。その理由も何も説明できない。

 帰宅後事故現場に一番近い小学校に電話連絡し、児童が交通事故に巻き込まれたかどうか問い合わせをした。応対した女性の職員は「そのような事故はありません」としか話さなかった。そのとき、とても不思議な感じにおそわれたことを覚えている。
 その女の子が通っていない区域外の小学校に電話をしてしまったのだろうか。国立市内の小学校に電話をしたことだけは確かだが、しかしその小学校がどの小学校か、これもまたまったく覚えていない。
 この事故がすべての原点であった。

 現在、2023(令和5)年12月31日午後8時30分。あと3時間半で新しい年2024(令和6)年を迎えようとしている。年が変わらないうちに、昨年7月に起きたことをお伝えしておきたい。『異界紀行』を伝える直接の契機になったできごとを。
 その後に、プレリュードの最後を【意識体について】で締めくくろうと思う。

 なお、『異界紀行』第1話は「ある風との出会い」を予定している。
 この「国立物語」を公開したのち、準備のためしばらくお休みをいただき、その後第1話から公開するが順不同になる可能性もある。  

 昨年の2022(令和4)年7月23日土曜日夕方、仕事で車に乗っているとき小平市の学園西町1丁目辺りから体がいきなり倦怠感におそわれ、帰宅してから39度の熱が出はじめた。新型コロナである。この日から連続13日間、咳や38度以上の熱、睡眠不足に見舞われた。かかりつけのクリニックで処方された解熱剤などは一切効かない。
 熱や咳もさることながら、睡眠不足には大変な思いをした。当たり前のことだが、普通寝るときは体を横にする。ところが横になると胸に圧迫感を感じ息が苦しくて眠れないのだ。そこで、壁に背中をもたれた座位の姿勢で睡眠をとるしかなかった。
 心臓や膵臓などに基礎疾患があるため、多摩小平保健所の担当者はこれ以上の自宅療養は無理と判断し、8月5日の午前中に救急車を手配し入院させる手はずを整えてくれた。その前日の夕方近く激しい雷雨があった。雷の音は嫌だが、稲妻には惹かれる。縦横無尽に空を駆けめぐる稲妻は天空の祭典のようだから。私はじっとその光をみつめていた。雨がずいぶん降っていなかったので干天の慈雨だ。植え替えようと思っていたミカンの木があった。種から芽吹いて1メートルくらいに育っていた。
 体は相変わらず最悪だったが、植え替えにはちょうどいい雨かもしれない。ふらふらしながらも、思い切ってスコップを手にして外に出た。ところが、その作業の最中、誰かが地表近くまで剪定していた笹の茎の先端がサンダルを貫き、左足の土踏まずに深く突き刺さってきた。笹の鋭く尖った先が皮膚を突きぬけズズッと内に入って来る感触がわかる
 いったん戻り、時間をかけ流水で傷口を入念に洗った。きれいに血を洗い流したが、かなりの出血だった。足からしたたり落ちる水道の水がまだ淡い赤色の血に染まっている。
 その晩のこと。足も痛かったしやっと移し終わったミカンの木で疲れたのだろう。11時前だったろうか、布団の上に体を横にしてみた。すると、息苦しさを感じないではないか。小躍りするくらい嬉しかったが、それもつかの間、たちまち深い眠りに落ちていった。
 気がつくと、すがすがしい朝を迎えていた。体温はなんと36.6度だ。新型コロナからの生還を心身ともに確信したときだった。涙がグッと込み上げてきた。そして、この間に私は74歳の誕生日を迎えていたのだった。

笹(ササ) 2024年5月29日 筆者撮影
撮影地: 小平市小川西町2丁目

 この頃からだった。32年前のあの交通事故のことが、なぜかしきりに頭をよぎり始める。とにかく、放置しておいてはいけないという思いが強くなった。重傷事故や死亡事故なら新聞の多摩版に載るだろう。被害者が小学校の児童ならなおさらだ。そう思って調べることにした。「祈り」の約束を果たすためである。
 早速、国立市役所に連絡を取ったところ、そのころの事故については、新聞の縮刷版やマイクロフィルムのデータベースを調べた方がよいとの助言をいただいた。
 先月の11月15日(水)、小平市中央図書館に出向き、1991(平成3)年6月26日水曜日午後1時20分以降に発生した交通事故の新聞記事をデータベースで調べた。新聞社は2社、朝日新聞と読売新聞。日付は事故の翌日の6月27日から28日、29日の3日間。調査対象(事故発生)地域の地方版は、朝日新聞については東京版・東京東部版・東京南部版・東京北部版・東京むさしの版の計5地域、読売新聞については東京江東版・東京多摩読売版・東京武蔵野版・東京第三多摩版の4地域となった。
 調査の結果は、死亡事故も重傷事故もまったく載っていなかった。複雑な思いがした。「祈り」と「願い」は通じていたのか。
 今、年が明け2024(令和6)年1月1日を迎えた。78歳最後の日付まで、2年と8か月を切る。

【意識体について

 『異界紀行』にふれて、貴方は自分が置かれているこの世界あるいは場所・空間を、半信半疑ながら、いままでとは異なった思いや感覚で見つめ始めているのではないかと思う。
 かつての中央大学駿河台校舎中庭掲示板に現れた『顔』には「二つの目」、二つの鼻孔そして大きな口がある(拡大すると可愛い小さな鼻孔がわかる)。
 まるでその容姿は自分の存在する世界から、私たちの世界を覗いているようだ。その瞳はある方向を向いている。何を見つめているのかは分からないが、あるものをじっと観察しているかのようだ。そこに、この「もの」(失礼な言い方かもしれない)の意識を私は感じる。そこで、このような「もの」を「意識体」と呼ぶことにした。それについてはすでに触れた。
 「顔」が写り込んだこの写真だが、一人の方を除いて45年の間誰にもお見せすることはなかった。衆目にさらすことをずっとためらってきた。公開して人目にさらすことになぜか抵抗を感じたからだった。この抵抗は私とこの「意識体」の(有るとすれば)関係性から生じるのかもしれない。要するに「見世物」と化し、大勢の人の単なる好奇心や興味の対象にされることを恐れたのである。
 しかし、現在の日本社会が法制度的に「自我の物欲の充足のために、他者は存在する」ことを肯定した結果、この社会(世界も含めて)が自然の摂理として必然的に崩壊する過程にある以上、この進行にストップをかけ社会をあるべき姿に戻さなければならない。そのためには、この「顔」の意識体の力を借りなければならなかった。 

 意識体は私の体験からすると、ある種のエネルギー体で様々な物理的現象、物理的形態をとることができる。風になることも、音になることも、霧の人の姿になることもできる。あるいは、気付かれないように私たちの目には見えない場合もあるだろう。千変万化、千姿万態である。
 そして、何らかの理由で時を選び、人を選んで私たち生身の人間に接触してくることがある。ただし、私たちを観察し、個々人の特質や心底にあるものを見てからだろうが。第1話の『ある風との出会い』は、意識体が風という物理的現象をとった典型例である。

 問題は、その意識体が接触してくる目的だ。単なる自己の存在をアピールしているだけなのか。興味本位に、恐れさせようとしているのか。それとも、危難から私たちを救おうとしているのか。あるいは、何かを試そうとしたり、何かを依頼しようとしたりしているのか。
 この「依頼」の場合だが、その内容が当初から分かればよいのだが、すぐには分からないときもある。目前の物理的現象が「依頼」かどうかそれ自体も分からないときもあるくらいだから、ましてやその内容をこちらから確かめる力は私にはない。結局、それなりの時間が経ってからその意味が、ある日突如知らされることになる(第5話ウエスティンホテル仙台の大奇跡』)。
 13年前、2011年の4月から6月にかけて、大手損保会社の東日本大震災地震津波被害調査員として盛岡でしばらく勤務した後、仙台を起点に宮城県の被害を調査していたことがあった。そのとき滞在していたウエスティンホテル仙台33XX号室(33階 地上128m)での現象はまさしくそのケースだった。
 このときは、深夜の1時から始まった現象が2時59分に爆発的に巨大化したのだが、これがある重要な「依頼」の伝達手段であったことにその当時認識できず、ただただその現象に圧倒されてなすすべもなかった。
 そのため、帰京後も腹の虫がおさまらないほどの「怒り」が生じ、私の「心の鏡」がこの「怒り」という「ゴミ」屑のためよごれて、曇りに曇ってしまったことを覚えている(「心の鏡」が曇ると周囲のあらゆる状況を冷静に心で見通すないし見渡すことが難しくなり、死角や盲点が生じやすくなる。その結果、「魔が差す」確率が上がり危険な状態が生じる。)。
 結局、依頼の内容が明らかになったのは3年と5か月も後のことだった。この話は第5話で具体的に詳しくあつかうが、いずれにしても、意識体からの「依頼」は必ず存在し、依頼されることがある。すべて、素晴らしい内容の依頼であり、恐れることはない。そのためには、後述する「空の心」の「」が曇らないようにしておくことが大切。
 これまでの体験から、意識体には大別すると二種存在するようだ。一つは、私たちを危難から救ったり、善き「道」へと導いてくれたりする「」(第6話『704KQ 不時着失敗 Douglas, GA USA』・第7話『左背後に立つ女性』・第0話『炭俵(すみだわら)』)と、もう一つは私たち自身を、ひいては他者をも巻きこんで破滅に導きかねない悪意をもつ「」である(第3話『三根(みつね)(みつね)の首と常陸那珂(ひたちなか)(なか)の天井』)。
 どのような人でも「正」の意識体に対してはたとえ実際に遭遇したとしても、慣れれば恐れることなく遭遇は歓びとなる。
 他方、「邪」の意識体とはどうか。それにしても、このいわば邪体はなぜ人を恐怖の(とりこ)にしたり錯乱状態に陥らせたりするのだろう。今の私にはその理由を明らかにする力はない。ただ、そのようなものと出会った時、私の場合は価値観のピラミッドの頂点に置く「(きよ)い心」の(もと)に醸成した「空の心」で正対して、邪体から受けたいわば「圧力」を努めて冷静・無心に洞察し、無視するか、ときによっては「強い心」で「押しかえす」ように努めている(第1話『ある風との出会い』・第3話『三根の首と常陸()那珂()の天井』)。
浄い心」とは、拝金絶対主義を中心とする物欲や名誉欲を含めて、あらゆる我欲への執着を捨て切った、または捨て切ろうと努める心を意味する。
(「あらゆる我欲」には、自己啓発や自己研鑽に応用転化しようとしない「嫉妬心」も含まれる。このたぐいの嫉妬心は自分自身はおろか、兄弟姉妹、他人、社会をも衰滅させる。他者への「感謝」の気持ちがなかなか持てない人や、好奇心が少ないせいだろうか、どんなものからでも学ぼうとする意欲に乏しい人に、「嫉妬心」が強く宿るとも聞いている)。
強い心」は人によってその手段は異なると思うが、祈り・瞑想・行・修行・修道・稽古・修練・鍛錬などで培った心のこと。
 「浄い心」と「強い心」の具体的意味については個々の実話のなかでふれようと思う。ただここで明言できることがある。それは、「浄い心」に裏打ちされていない「強い心」は、まやかし(偽物)に他ならないということだ。したがって、そのような程度の「強い心」では、邪体と無心で「正対」する気力や気魄などまず出て来ない。万が一出て来たとしても、一瞬で消える。それどころか、恐怖におののいて後ろを見せるだろう。
我欲を離れた清廉潔白な心ほど強いものはないからである。なお、この「浄い心」と「強い心」は第1話『ある風との出会い』でくわしく解説する
 常日頃、心から妬み・怒り・憎しみ・先入観・無知偏見・執着・貪欲など諸々の異物(=心のゴミ・チリ)を取り去り、心を「空」(「からっぽ」の「から」または「くう」)の状態になるように意識しながら生活すると、心の鏡が磨かれ澄んでくるという(「空の心」・「空の心の鏡」の醸成)。醸成された空の心は、たとえ人混みの中にあっても、自分の存在を意識で消すことができるのだろうか。
 澄み切ったその鏡面は自己の心はおろか、人の心や犬・猫・鳥など小動物の純真な心や、あるがままの大自然まで映し出すそうだ。
 邪体の心までがその鏡面に映るようになれば、「異界」の構造や世界の実相がもしかすると見えてくるのかもしれない。

 なお、第2話『伊豆鳥島沖の叫び』、第4話『母の姿』、第8話『えり子の見た不思議な空』そして第9話『鳩』では、意識体の「正」「邪」の区別を離れて純粋に不思議な現象をとり扱った。

 プレリュードは、これでようやくその幕を閉じる。転落死や焼死をまず免れた人生の原点・【国立青柳811番地】の引揚寮から放たれた光は、満洲国の無辜(むこ)なる犠牲者やB29の空爆など戦時中という生々しい過去を思いがけず照らし出してくれた。
 終戦の年の3年後に生まれた私は、元陸軍獣医資材本廠を契機にして戦前の時代をほんのわずかだが、その時代の方々と共有できたような充実感と喜びを感じている。なぜか、涙ぐむほど深い感謝の気持ちが心に満ちてくる。そして、さらにその光は「異界」をも照らし出そうとしている。

『異界紀行』の収録をすべて終了したのち、時があればこれまでみてきた不思議な夢についても語ろうと思っている。「三菱岩崎の館と落雷」や「青いリボンの封筒」、「スミス島の星々」など夢が現実と一致したもの、あるいは「湧き出づる六頭の雲竜」や「飛来する七つ星」、「極彩色の光を放つ洞窟」、「光り輝く楕円雷体と3本の短剣」など起承転結にこだわらない短い夢などである。

その機会が訪れる日を楽しみにして、序章「国立物語」の筆を置く。
                        2024(令和6)年3月2日 
                

資料1: 満洲国図

   Wikipedia

資料3:舞浜会議 今井=宮内論争
舞浜会議 1994 と日経連報告 1995
参考:「さらば日本型経営。「舞浜会議」で始まった」『朝日新聞』2007 年 5 月 19 日
舞浜会議 経済同友会の研究会 1994 年 2 月 25 日 参加者 14 名 or12 名
千葉県浦安市舞浜のホテル、ヒルトン東京ベイにて
今井・宮内論争: 新日鉄社長の今井敬 vs オリックス社長の宮内義彦
「企業は誰のためにあるのか」
日本企業は雇用優先(終身雇用を維持すべき)か、米国流の株主優先か
宮内:企業は雇用に責任ない。経営者は株主を選べない。
株主の利益を重視しなければ、グローバル競争の中では外国企業に買収されるという危機感
今井:製造業の競争では技術やノウハウが従業員に伝承されることが重要。
米国型資本主義のように株主重視で短期的利益を追求すると、それは不可能。
日本 IBM 会長の椎名武雄は今井を批判:
終身雇用が会社人間をつくってきた。 行き過ぎた会社中心社会は改めるべき。
ウシオ電機会長の牛尾治朗は宮内を擁護: 高齢社会では終身雇用・年功序列はもたない。
牛尾はのちに「市場主義宣言」を出して、小泉内閣のブレーンに。「日本型経営は終わった」
新日鉄もリストラを迫られていた。
バブル崩壊後の需要縮小とグローバル競争の中で、正社員の雇用を維持すれば固定費を柔軟に削減できず、企業と経営者の存続すら危うくなった。
宮内の言うように、株式会社の経営者は社員の選別権を持つが、株主を選り好みはできない。

日経連「新時代の『日本的経営』―挑戦すべき方向とその具体策」1995 年 5 月 18 日

  1. 管理職や技能部門の基幹職をになう長期能力活用グループ
  2. 営業や研究開発をになう専門能力活用グループ
  3. 技能工、販売員や一般職に従事する雇用柔軟グループ
    第 3 グループは短期勤続で流動的な人員、時間給昇給なし、職務給
    採用は新規学卒者に限らず、中途採用者も必要な時に必要な人材を確保すべき
    雇用数がもっとも多い第 3 グループは、柔軟な採用と解雇と対象になる
    これでは今井が言った「技能の伝承」は空文になる。
    もしも職務給が現実になれば、その仕事に精勤すれば十分に生活できる賃金になるはず。
    これが保障されず、最低賃金に近い時間給になれば、年収 200 万円の労働者グループになる

    経営者による日本型経営の自主的解体宣言。
    あの「企業社会」はごく一部の人々だけをメンバーとするように・・・。

【余談】
次に引用する記事は、製造業への労働者の派遣を認めた2004年の労働者派遣法の改正から、5年経った2009年1月17日のものです。

「雇用に手をつけるのは、経営者が責任ををとって辞めたあとだ」。15年前、今井敬・新日本製鉄社長(現名誉会長)はそう言い切った。
鉄鋼業界はリストラに苦しんできたが、本社に抱えきれなくなった社員を子会社へ、それでもダメなら孫会社へと配転し、定年までの雇用だけはかろうじて守った。
これに「グローバリズムの中で株主重視こそが経営者の責任」と反論したのが宮内義彦オリックス社長(現会長)だった。財界で語り継がれる「今井・宮内論争」である。その後は日本でも株主重視の「米国型経営」が優位になり、経営者の雇用観もずいぶん変わった。
いま「派遣切り」が社会問題である。経済界の姿勢が問われるなかで、御手洗富士夫・日本経団連会長は年初の会見で「官民あげて雇用問題に取り組むと述べたが、「雇用を守り抜く」という強いメッセージはついに発しなかった。
むしろ経済団体トップらが語気を強めて主張したのは「製造業派遣の禁止は行き過ぎ」(桜井正光・経済同友会代表幹事)という規制反対論だ。
製造業派遣にかつて反対していた今井氏はいま、「確かに経営者にとっては難しい時代になった。それでもワークシェアリングなどいろいろやって会社の中で雇用を吸収する必要がある」という。
雇用を守り抜く経営者の覚悟と志。栄光と挫折を味わってきた「日本型経営」の本質は、詰まるところそこにあるのではないか。
(原 真人「窓 論説委員室から 日本型経営の志」朝日新聞夕刊3版)

1929(昭和4)年12月23日生まれの今井 敬 氏(現日本製鉄相談役名誉会長・日本経済団体連合会名誉会長)は本年令和6(2024)年御年満95歳になられます。
ここに更なるご長寿とご活躍、そしてご家族皆様の益々のご発展とご多幸を心からお祈り申し上げます


異界紀行 第1章 

伊豆八丈島全景 1984(昭和59)年5月筆者撮影
【画面左端に八丈小島(大平山<おおたいらさん>616.8m)、中央に西山の八丈富士(854.3m)、西山の手前にみえる峰は東山の三原山(700.9m)。
西山と東山で八丈島が形成されていて、空から見るとちょうど瓢箪の形をしている。
東山は約10万年前から活動を始めた複雑な形状をした活火山。西山は数千年前から活動を始めた新しい二重式活火山。
画面の中心方向は北。すなわち、ほぼ真南から島を見ている。大賀郷の八丈町役場から真っすぐ北上すると約285㎞で東京駅に達する。】

八丈島航空写真 2001(平成13)年11月1日撮影
撮影高度:3200m 撮影機関:国土地理院
【画面左上に八丈島空港右端中央に神湊かみなと漁港、右下端は貨客船・フェリーターミナルの底土(そこど)港

【最南端の孀婦岩(そうふがん、そうふいわ)は伊豆諸島最南端に位置する高さ99mの活火山で、鳥島の南方約75kmに位置するカルデラ式海底火山の外輪山にあたる。須美寿島(すみすとう、すみすじま。スミス。欧名:Smith Island)はスミスカルデラの外輪山の一部で無人島。画像:ウイキペディア提供】

2024(令和6). 04. 18  
Ⅰ. 【丘の上】
 1984(昭和59)年の3月初旬から6月初旬までの3か月間、伊豆八丈島に滞在し武道の修行を兼ねて春トビウオ(春トビ)漁やマグロ・カツオ漁に従事したことがあった(春トビの種類:ハマトビウオ 英名:Japanese giant flying fish / Coast flying fish )。
 春トビウオ漁は神湊漁港所属の第三稲荷丸(19トン )に、マグロ・カツオ漁は同じく神湊漁港所属の第八稲荷丸(19トン)にお世話になった(春トビウオ漁は、産卵のため南太平洋から黒潮にのって北上するトビウオを流し刺し網で獲る漁)。
 どの漁もそれなりに苦労があるが、その中でも2月末から4月中旬頃まで、八丈島から南へ約287㎞離れた伊豆鳥島沖で行われる春トビウオ漁は、アラスカ・ベーリング海のカニ漁および、同じくアラスカ・ベーリング海のサケ漁と並び体力的にも精神的にもかなり厳しいと言われている(事実、1航海は1週間少々ですが睡眠時間が正味1日1時間弱と極めて短く、そのためひげ(髭)や爪がほとんど伸びなかった)。
※→画像「アラスカ…筆者」の後に続く

余談:次の4枚の画像は、刊行を予定している『アラスカ写真日誌』に収録するつもりでしたが、残された時間の関係で出版が間に合わないかも知れません。そこで,この場を借りて画像の一部とその解説のみ公開することにしました。

ベーリング海のサケ漁はアメリカの独立記念日前後に最盛期をむかえる。漁法は八丈島の春トビウオ漁と同じ流し刺し網漁(Drift Gill Net)で、後掲の画像BBを拡大すると画面中央の2隻の漁船の間に、漁網に浮力をもたせる「浮き」(=浮子、八丈島ではアバとよんでいた)が白い数珠玉のように見えている。
流し刺し網の長さは厳しく制限されていて、上空には違反操業を取り締まるためアラスカ漁業委員会(BoF)所属法執行機関の中型飛行機が旋回している。洋上の漁船の数はゆうに100を超えていた。

1992(平成4)年~1996(平成8)年まで留学ビザF-1で米国に滞在したが、最後の1年間は就業ができる。その職種が合法(legal)である限り制限はない。
そろそろ留学資金も底を尽きかけていた。それに加えて、米国でしかできない仕事は何か、と考えたとき、12年前35歳の時体験した八丈島春トビウオ漁の記憶がやはりよみがえった。アラスカのサケ漁も日本の春トビに引けを取らないほど厳しく、途中で船を下りてしまう人が殆どだと聞いていた。どれほど厳しいのだろうか。
私にできるだろうか。もし、その厳しさに堪えその試練をのり超えたとしたら、私の価値観やものの考え方などにどのような変化が起きるのだろうか。

春トビでは「地獄と天国はヒトの心の中に潜んでいる。」ことを体感した

あの鳥島の漁から帰ってきて浜に上がり、雨上がりの三根(みつね)を歩いていたときがあった。まだ、体は静かに揺れている。しばらく沖にいると、体は船の揺れに少しずつ適応し船の揺れに合わせて体も自然と動くようになる。
今は陸に戻っている。ところが、今度は逆に動かない大地に体がまだ順応していない。だから、体の揺れが続いている。脚の動きもおぼつかない。足を大股にして歩いていた。
間もなく、道沿いの家々がキラキラと輝いていることに気づいた。雨上がりのせいだろうか。それにしても、何の変哲もないありきたりのただの家々・樹木、あらゆるものが透明な光を放っている。美しい!一体何が起きているのだろう。私はその光を全身に浴びながら、いざなわれるようにゆっくりと歩みを進めた。
そのとき、力強い声が体内に響いた。
「これが、天国だ。感動の天国は生きている私たちの心の中に潜んでいる!」

大海原の惹きつける力には抗しがたい。結局1995年の6月8日から同年の8月13日まで約2か月、アラスカを旅することになった。
やはり、極北のサケ漁の噂は真実だった。重労働と睡眠時間だ。
アラスカ半島付け根のナクネック(Naknek )で初めて乗った船では、重労働に加えて食事が出なかったため、すべてのエネルギーを使い果たして体がスカスカになり、捕獲されてデッキを所狭しと埋めつくす鮭の海に、すんでのところで頭から突っ込み気を失うところだった。
この直後偶然にも、船の動力をプロペラに伝える駆動軸に不具合が生じて、帰港することになったため救われた。
それがなかったら、どうなっていたのか分からない。
春トビでお世話になった八丈島でもそうだったが、ここでも「俺はなんで、こんなことやってんだろう。」と自問し、いくすじもの涙が頬を伝っていった。
八丈島では「島(八丈島)回り」の漁を終え帰路についたとき、船べりで腰かけて沈みゆく夕陽をじっと見つめていた。そのとき不意に、一筋の涙が右頬をツーっと静かに伝っていった。こころの修行のため訪れたこの地であっても、流れるものは流れるのか。
涙もさることながら、このナクネックでは心から一生消えるのことのない景色に出会うことができた。それは、小高い丘の上からみた眼下のクビチャック湾(Kvichak Bay)の感動の色だった。
その日は風がなかった。月は出ていなかったと思う。陽が落ちて夜のとばりが下りる前、ビロードのような凪のみなもは残照で深い青色に染まり、湾全体が宝石のよう深い輝きに満ちていた。
息をのむほどの光景だ。余りにも美しい。このような美しさがこの世界にあったのか!
夕暮れどき、静かに輝く深い青色に時を忘れ、写真を撮ることさえ忘れてしまった。色に例えると何色だろう。瑠璃色だろうか。それに近い色だ。しかし、惹きつけて心を奪う「輝き」はない。

ナクネックから北西に約81㎞のディリングハム(Dillingham)の船に乗ったとき、睡眠時間は、1航海の4日間で合計5時間半だった。体重は82㎏から63㎏に落ちた
身長が173cmで太っていたのでちょうどよい。気分は爽快で100mを5,6秒で走れるのではないかと思ったぐらいだ。元々足は速かったので、オリンピックに出たら優勝だ。体が軽いということはなんと素晴らしいことか。46、7歳の男が飛び跳ねるようにして歩くことができる。
下の画像はその船に乗っているときの一枚。サケが網にかかると、エラ呼吸ができなくなる。そこで、窒息死を免れようと猛烈にもがき暴れる。そのときSplash(水しぶき)が2mくらい上がるが、それを見つめていると時が経つのを忘れ睡眠を忘れる。神経がおそらく覚醒されているのだろう。】

↓要拡大画像BB:ベーリング海
  ブリストル湾 サケ漁の船団
  (Bristle Bay, Bering Sea)
  1995年7月初旬 筆者撮影
     © NORIO WADA 2024

画像:ベーリング海ブリストル湾船上(Bristle Bay, Bering Sea)
小ぶりのキングサーモンと筆者
   1995年7月初旬撮影

↓画像:アラスカ州トギアックの港で
  ( Togiak, Alaska)
トギアックはディリングハムから
西へおよそ91㎞。
  1995年7月下旬 筆者撮影

余談:漁船から陸揚げされたこのサケは、
紅鮭(Sockeye Salmon)
銀鮭(Coho Salmon)
白鮭(Chum Salmon )の3種類。
普段私たちが口にしている日本の鮭は白鮭で、日本の大手水産会社が現地(ブリストル湾)の漁船から洋上で買い上げる価格は紅鮭の十分の一だった。
記憶が正しければ、1995年7月当時1ポンド(453g)当り、白鮭は10セント。紅鮭は同じく1ドルだった。10倍!
白鮭は身が柔らかくてくずれやすく、上から下に置くときべシャッという音がする。
河川に遡上する産卵期とは違って、この時期沖合で捕獲される銀色をした鮭の種類の判別は難しい。尾ビレの模様や色などで識別するが、土地の漁師でも悩むことがある。紅鮭の身は締まっていて弾力がある。少し上から下に置くときポンというはじけるような音がする。
土地の人から、紅鮭の燻製をいただいたことがあった。これがまた実に美味。また、テントを張っていたディリングハムのキャンプ場で、夕食時みそ汁の具に紅鮭を使ったが、紅鮭には申し訳ないが、これがまた格別だった 。このみそ汁をお世話になっていたロシア系米国人の船主におすそ分けしたところ、大好評だった。】

↓画像:白鮭の筋子
    トギアック( Togiak)
鮭の加工工場
1995年8月初旬 筆者撮影

画像:ディリングハム
ボートヤード(Boatyard)
1995年6月中旬 筆者撮影

 アラスカの夏は短い。8月に入ると雨まじりの風が吹く。7月と打って変わって気温もぐっと下がり急に寒くなった。
 トギアックから帰ってきて、ディリングハムのキャンプ地に再びテントを張ったが、小さな嵐のような雨風が吹きテントが飛ばされそうになった。これが季節風か。おそらく9月早々には雪になるのではないだろうか。
 このキャンプ場のことで一つ驚いたことがある。トイレとシャワーの設備が整っているが、そのシャワーから無尽蔵に温水がでるのだ。温度調節もできる。これには大いに助かった。テントという地べたの上での生活で、この温水シャワーは大げさにいえば文明の賜物だった。体をあたためることができて、知らぬ土地で体調を崩すことはなかった。
 まだまだ、この地ついてお伝えしたいことが山ほどある。紅鮭とその湖のこと、車でそっと見に行ったゴミ置き場に群がる実に大きいAlaska brown bear(アラスカヒグマ)のこと、地平線に垂直に沈む夕陽のこと、深紅の夕焼け空のこと、干満差で水が消える川のこと、そして植村直己さんが行方不明になったマッキンリー(現デナリ)のことなど、いつか機会があれば詳しくお伝えしたい。

要拡大画像:眼下のアラスカ(南の方角から)
 ディリングハムーアンカレッジAnchorage間
 1995(平成7)年8月13日 筆者撮影


【ブリストル湾に回遊する鮭はこのような川を遡上する。山あいに湖がみえている。河川の上流でふか(孵化)した紅ザケの個体のほとんどは白ザケとは違ってすぐには海に降りず、銀ザケとキングサーモン(Chinook salmon, 別名King salmon)と同様、1年から数年をこのような湖で過ごした後に降海する。】
   

↑要拡大画像機上からマッキンリーを望む
 1995(平成7)年8月13日 筆者撮影
 【南の方角からみている。画面中央にマッキンリー山( Mount.  McKinley 6194m 2015年からデナリ Denaliに改称 )。ディリングハムからアンカレッジへ向かう途中の、おそらくクック湾(Cook Inlet)上空
画面中央の黒い半円の筋や画面左端の黒い物体は高速回転するプロペラの軌跡。© 2024. 7. 5. N. WADA】

余談:このマッキンリー山では植村直己氏(1941<昭和16>年2月12日~1984<昭和59>年2月13日)を含む7人の登山家が遭難している。内訳は男性が4名、女性登山家グループ凌雪会のメンバー3名。
筆者より7歳年上の植村さんは行方不明になる3,4年前、私の住む小平市の喜平図書館(喜平町3丁目)に講演のためお越しになったことがある。
植村さんの著書にサインをいただいたとき、握手をして下さった。
その時の手の感触は忘れない。どう言葉で表したらよいのだろう。
握ると、押し返す力を少しだけ持っている、綿のようなふわっとして柔らかくとても優しかったと形容できるだろうか。「真綿のような感触」とは、このようなことを指すのだろうか。
握手した瞬間、柔らかく、しかし力を感じる肉厚の手に私の右手はふわっと完全に包み込まれたのだった。「このような手をした人が、世の中にはいるんだ!」驚きの一瞬だった。】

画像:アラスカから帰ってきた筆者
アトランタ国際空港 ( Hartsfield-Jackson Atlanta International Airport)にて
1995(平成7)年8月13日撮影 撮影者:通りがかりの人。感謝!

余談:シェパード犬エスの心



【丘の上】つづき
→※4月中旬頃から6月初旬にかけては、八丈島から南へ約180キロメートル、青ヶ島からは同じく南へ約110キロメートルに位置するスミス島周辺で主にマグロ漁(キハダマグロ)に従事した。→※画像スミス島の後に続く

↓画像AG:青ヶ島
1984(昭和59)年5月筆者撮影
【青ヶ島の東の沖合約12.5 ㎞から撮影。画面に向かって右の方角:北へ進むと八丈島へ、逆に左の南へたどるとスミス島がみえてくる。画面、島のほぼ中央から右の部分に島民の居住区が集中している。左半分は外輪山と中央火口丘(元々は池)。天明5年の大噴火ではその池が大火口に転じ噴火が始まった。】

↑画像:外輪山の噴気(天明大噴火の名残)
1984(昭和59)年6月初旬筆者撮影
【画面左の坂を下っていくと丸山(中央火口丘)が見えてくる。かつては大小二つの池があった場所。1785(天明5)年4月末の驚天動地の大噴火で、八丈島からの救助船に乗れ切れなかった島民約140名が死亡した。その時、起きた悲劇を人は忘れてならないと思うので、次に記しておきます。】

天明五年四月末の噴火は、これまでで最も激烈を極め、島人は海水に浸かっていなければ熱のため焼け焦げてしまうような有様であった。二十七日に救助船が来島したときのよろこびは、一瞬は気も遠くなるようなものではなかっただろうか。
しかし、その歓喜はたちまちにして大叫喚地獄と一変したのである。大海原の孤島に現(うつ)し世の地獄図が繰りひろげられたのだ。
無我夢中で船に乗ろうとする人々は、理性を失っていたかもしれない。力の弱い老人や子供たちは乗り遅れてしまって、降り注ぐ火の粉に焦がされ、噴煙にむせびながら、岩の上にころび伏すもの、乗せてくれと泣き叫ぶもの、海中に溺れ、助けを呼ぶもの、正に阿鼻叫喚の焦熱地獄さながらであったと書いている。
古老の伝えるところによれば、船べりに取りすがったものを、どうしても乗せるわけにはいかず、鉈でその手首を切り落としたという。思うだに慄然とする話である。
打ち続いた激しい噴火のために、食料は極度に欠乏し、心身共に憔悴しきっていた島の人たちは、特に体力弱い老人などは、船に乗り遅れて海中に漂ううちに、次から次と死んでいった。救助船も一刻を争って島から離れなければならなかったのである。
結局163人だけが乗船した。死亡者の数は140人ほどにのぼったようである。青ヶ島の歴史で最も凄惨な、そして悲しいできごとであった。
小林亥一著『青ヶ島島史』p185 -186

 なお、この青ヶ島天明の大噴火は小説にもなっている。沖に風が出て休漁のとき、山田常道著『火の島の詩(うた)』を第三稲荷丸のとも下(艫下)で読み、東京の本土へ帰京する前には必ずこの島を訪れる決意をした。
 ところで、この本の見返しの部分などにトビ魚漁やマグロ漁などほぼすべてを記録していた。
私にとっては貴重な記録だが、残念なことにあるとき人に貸してから、この本は行方不明になってしまった。探し始めてちょうど今年で40年が経った。いつか再び出会える日が来ることを祈っている。

要拡大画像: 青ヶ島
出典:1979(昭和54)年青ヶ島村役場発行
『青ヶ島基本構想』
。画面向かって右が北。左に中央火口丘(内輪山)の丸山がみえている。
画像AGはこの画面の下(東)の沖合から撮影したことになる。島のほぼ中央から右の部分が島民の生活域なっているのがわかる。

↓要拡大画像:スミス島(須美寿島)
1984(昭和59)年5月筆者撮影
【撮影の7年後、1991(平成3)年 11月、島の山頂付近北側が大きく崩壊し島の形状が変化したことが漁船の通報でわかっている。
なお、序章の章末で「『異界紀行』の収録をすべて終了したのち、時があればこれまでみてきた不思議な夢についても語ろうと思っている。」と述べた。
その一つが、夢が現実と一致した「伊豆スミス島の星々」。一日のマグロ漁を終え、錨をうって船を固定し夕食をとる。深夜、トモ(艫:船尾 Stern)にでて見上げると夜空が色とりどりの星で埋め尽くされていた。
星が多すぎて、星座が一つも分からない(これが自然なのだが)。「伊豆スミス島の星々」の舞台がこの島。】

→※ その間に、「人の意思をもつ風」すなわち「意識体」に出会うという体験をしています。
 季節はちょうど40年前の4月の今頃(中旬から下旬にかけて)です。空は曇っていたと思います。
 宿舎(神湊<かみなと>漁港の目と鼻の先、三根<みつね>地区の町営住宅)の裏手に小さな祠(お稲荷様)を祀る、こんもりとした小さな丘がありました。丘というより小山と言った方がよいかもしれません。
 島の書店で入手した團伊玖磨著『八丈多与里』の裏表紙の見返しに「4月18日、休漁。網の修理。南風吹く。暖かい。気温20度近い。
 翌19日、休み。午後になり南風吹く。昨日以来、巻き網船神湊沖に避難する。」という走り書きのメモがあるので、その小さな丘にあがったのはこの頃ではないかと思います。
 その丘の開けた場所で木刀と杖(じょう)を使って杖道(じょうどう)の一人稽古を始めました。午後遅い時間でしたが、まだ明るいうちだったと思います。
 その時でした。7,8メートル離れた右斜め前方の木立(小さな祠からは4,5メートルの距離)からいきなり一陣の風が、サーッと音を立てながらこちらの方に向かって吹きわたってきました。
 そこでは、風もなく穏やかな午後のひと時が流れていたので、「おや、何だろう」と思っていると、吹いてきたその風は、驚いたことになんと私の眼前でピタッと止まったのです
 風が止むということは分かりますが、勢いよく吹いてきた風が突然、停止するというようなことは見たこともなければ聞いたこともありません。
 そして、その、風というよりは一種のエネルギー体でしょうか、私の目には見えないその物体は、グッと間を詰めて私をすこぶる威圧しながら、頭の中で「おまえは、何者なのだ!」と強い口調で聞いてきました。声の主は一人。声の高さは少し低めで落ち着いていて、速さは普通です。女性の声ではありません。
 一瞬、恐怖心に駆られましたが、毅然(きぜん)と正対し、「私は天下の正道を堂々と歩いている。あなたにとやかく言われる筋合いはない。」と、心の中で即座に応じ、なおも稽古を続ける構えをとりました。
 私はこの正体不明の風に悔しさや怒りがこみ上げてきました。この時期の春トビウオ漁の漁場は、4月中旬頃までの寒く雪がちらつく伊豆鳥島から、八丈島に近いスミス島青ヶ島周辺海域へと、春トビの北上に合わせて徐々に移り、1航海も3日ほどになっていました。鳥島での言わば不眠の労働から解放されて、体力も戻って来ていました。「地獄」と「天国」は、人の心の中に存在する。そう体感し確信したのもこの頃でした。
 休漁日を利用してやっと武道の形(かた)稽古ができるようになったその初日です。久々ぶりに稽古に集中していたところを、いきなり妨害され威圧されたのでした。
 稽古を続けようとすると、なおも眼前に居据わるその意識体は向きを変えて今度は私の左斜め前方8メートルほど離れた茂みの方へサーッと音を立てて吹いていくと、その茂みのところで再び同じようにピタッと止まりましたそして、こちらの様子をじっと観察し始めたことが私に伝わってきます。
 先ほどまでの恐怖心は、まだ完全には消えてはいません。しかし、この未知の物体によっていきなり訳も分からず脅され威圧されて生じた悔しさのせいでしょうか、私はその透明な物体に向かって「よし、見ていろ、俺の本当の姿を見せてやる」と強く意識し、前にもまして形稽古に邁進しました。この時、よく覚えていないのですが、杖道特有の鋭い「気合」を丘の上で初めて出していたのかもしれません。
 すると、ものの1分も経たなかったと思いますが、その物体は音もなくスーッと、その茂みの中で溶けるように消えていったのです。「(静止していた風が)溶けるように」というよりは、「立ち込めていた霧が一瞬で消えるように」という表現の方がふさわしいかも知れません。
 そして、それまでその場を支配していた気配はまったく感じなくなりました。
 我に返ると、辺り一面何事もなかったかのように静寂と平穏がただただ漂っていたのでした。

この風は一体何だったのでしょうか。
貴方はどう思われますか。

Ⅱ. 【強い心】と【浄い心
「強い心」とは何か。「浄い心」とはどのような心か。
気魄(きはく)の正体を知ることでその姿に迫ることができると思います。
 武術の「気魄」について先ずお話しします。これからお伝えする気魄は、神道夢想流杖術免許皆伝者・西岡常夫全剣連杖道範士八段(1924<大正13>年2月7日- 2014<平成26>年2月8日)から伝えられたものです(全剣連:全日本剣道連盟)。
 言葉で表すとすれば、こちらの命をとろうとする者に対して、「それほど私の命が欲しければ、くれてやる。しかし、その代わりあなたの腕一本はいただきますよ。」と心に念じて、短めの少し速い呼吸に変えて気を高め正対・対峙する気概のことをいいます(気の高め方は筆者個人の方法)。
 気魄を象徴するこの気概には、もはや自己の命への執着があってはならないのです。命への執着がないところに、恐怖心は生じません。この境地にいたって、恐怖心に縛られない自由な心が生じ、高度の平常心と臨機応変の体の自在な動きが得られるからです。
 しかしながら、「その気魄は生身の人間に対するものであり、腕などという肉体をもたない意識体に対しては意味をなさないのではないか」、と思われる方が当然いるのではないでしょうか。そう思われることは、至極当然なことです。
 しかし、そうではないのです。先に筆者が申しあげた「気魄」には、「あらゆるものへの執着を捨て、相手がいかなる者であっても、後ろを見せず『浄い心』で正対・対峙すること」が根底にあるからです。そして、その「いかなる者」が生者であるか、それとも死者であるかは不問であり、また「腕一本」は例えに過ぎず、腕があってもなくてもよいのです。

杖道の稽古風景
【1986(昭和61)年10月19日撮影
 於 東京都小平市花小金井武道館
 打太刀 西岡常夫先生 仕杖 筆者】

 西岡常夫先生(撮影当時70歳)
【撮影日:1994(平成6)年
撮影地:米国 ジョージア大学構内】

それでは、「強い心」を支える「浄い心」とはどういう心を意味するのでしょうか。
神道夢想流杖術免許皆伝者・松村重紘(まつむらしげひろ)全剣連杖道範士八段(1943<昭和18>年1月10日–2021<令和3>年11月14日)は、「心を完璧にしろ」と、在りし日の代々木・紘武館道場で早朝、初めて一対一の稽古をつけて頂いたのち私にそのようにご教示くださりました。
 この日は「形稽古の真髄」について目から鱗が落ちる思いをしたり、まるで飛んでくるような先生の太刀先から涼風がサーッと静かに吹いてきたりして、終生忘れることのできない日となりました。形稽古の真髄を授けていただいたそのときの先生のお言葉や所作は、25年経った今でもほぼすべて即座に再現できるほど私の人生の大きな節目となり悦びとなりました。

松村重紘先生 杖の「逆手の構え
画像提供:埼玉県 入間川杖道会

 さて、なぜ「心を完璧にしろ」と言われたのか。松村先生の「完璧な心」と「浄い心」とは同じものなのか。肝心なことですが、「浄い心」は「あらゆるものへの執着を捨て」切ることのできる心でなければなりません。
 真剣形武術の稽古をすると分かりますが、不思議なことに、心が金銭欲や肉欲などの物欲にまみれていたり、あるいは諸事につけ迷いがあったりすると命への執着が断ち切れません。つまり、命を捨て死ぬ気で相手と正対・対峙できないのです。
 卑近な例ですが、例えば株式や商品の先物取引をやっていて、いつ追証がかかるかもしれない状況のとき、命を捨てて稽古に打ち込むことができるでしょうか。

Ⅲ. 【真剣形武術と真剣形稽古

(1)古来より伝承されている真剣形武術は、その稽古体系において、ヒトがもつ邪気をいやおうなく駆逐して清らかな本心を取り戻し、やがては、ひと一人ひとりに賦与されている本分に覚醒させ、その成就に貢献する力をもつ。
すなわち、その稽古体系には「『私』を捨てざるを得ない」という意味における「精神を浄化する働き」が秘められている。
真剣勝負にあって自己の命に拘泥すれば、本能的に恐怖心が生じる。恐怖感に囚われた心によって、体(たい)は本能的に敵の剣先を避けるため多くは後ろに後退する。その結果、逆にその剣先に捕らわれ切られ命を落としやすい。
この古(いにしえ)の実戦に即した経験則から、真剣形稽古における一つひとつの形(かた)は、「命に拘泥しない」こと、すなわち「自己の命を自ら捨てきる覚悟」をもって、本能的に生じる恐怖心に打ち克ち、相手に立ち向かうことをその教えの旨としている。ここに、真剣形武術が有する「浄化作用」の奥義が潜んでいる。

真剣形稽古⇒精神浄化作用=「浄い心」の醸成⇒「私」を捨てる「無私の精神」の涵養=「強い心」

(2)真剣形稽古が必然的にもたらす、自己の「命を捨て切る意識」は、稽古者の普段の日常生活における心構えに深い影響力を及ぼしていく。
身一つで、自己の命に拘泥せず立ちむかうことが、どのような精神作用の覚醒をうながすかである。「物欲」に囚われた心をもってして、「命を捨て切る覚悟」はとうてい持ち得ない。
真剣形の稽古体系におけるそれぞれの形の習得は、面などの防具を身に着けず太刀(木刀)や杖(じょう)などを用いて、自己と他者のあらかじめ約束された動きにしたがって行われる(神道夢想流杖術および全剣連杖道で使用される「杖」の長さは、四尺二寸一分(約128cm)、直径八分(約2.4cm)の白樫の丸木の棒)。
いわば、鋳型の「型」をくり返し繰りかえし正確に習得することから始まる。そのため、ややもすると無味単調で奥がないとの誤解をうけることがある。
しかし、その目的とするところは、「こころ」を練り、やがて「型」に囚われない自由な「こころ」を培い、そして究極的状況にあっては、その「自由なこころの働き」に身をまかせて己の生死をゆだね、「型」に囚われず相手に対応することにある。

(3)神道流剣術の12本の形の一つ、「相寸」の一部を例にとって、具体的に説明しよう。
これは、正中線をねらって面に切りつけてくる相手(打太刀<うちだち>といいます)の太刀に対し、右八双の太刀の構えから右足を右斜め前方にはこび体をさばいて相手の太刀を寸分にはずすと同時に、右下方向に回転した太刀(仕太刀<したち>といいます)で打太刀を下からすくい打ちし、相手を制していく形です(正中線 せいちゅうせん :左右対称形の生物体で、前面・背面の中央を頭から縦にまっすぐ通る線。男女関係なくすべての人に生まれつきある。特に、女性の場合は妊娠時におへそを中心にして浮かび上がる1本の黒っぽい縦線のこと。頭部の正中線は鼻の下のくぼみ<=人中>に現れている。右八双の太刀の構え:太刀を立てて、頭の右側に寄せ、左足を前に出してかまえる構え。)。

初歩の段階では、面に切り付けてくる太刀にどうしても委縮してしまうため、打太刀が十分に打ち込む前にあわてて右斜め前方に逃げるように移動してしまうが、打太刀はその(仕太刀の)面に切りつけていく動作は取らない。この段階にあっては、形を型として正確に習得することが主眼である。
しかし、型をおぼえ慣れるにつれても、意識(=こころ)は切りつけてくる恐怖感から逃れようとして、なおも打太刀の太刀先が動く前にすでに、右斜め前方へと移動し始める。その意識につられて、体もそぞろ動いてしまう。
実戦では、相手の太刀が十分に打ち込むより先に動けば、その太刀は動いた方向を追って切りつけて来る。この場合、先に動いた方が実戦では命をおとす。したがって、「切った」と相手に思わせるまで動いてはならない。太刀を「見きわめる」という意味の「見切り」である。「見切る」ということは、本能的に生じる恐怖心にうち克つことに他ならない。
そのようにして見切れるようになり、さらに鍛錬をつみ重ねていくうちに、こころは少しずつ自由になっていく。「自由」とはこの形(合寸)の場合、太刀がどこを切ってきても、見切ったうえで相手の太刀さばきに対応し、右斜め前方のみではなく、右横、左右の斜め後方などに体をさばくか、あるいは太刀先が触れない程度ほんのわずか真後ろに間合いをとって、攻めに転じることのできる応用なゆとりをもった「こころ」のこと。
すなわち、型が指示する「右斜め前方」に、その「こころ」はもはや居ついていないことを意味する。実戦では相手の太刀がどこを切ってくるかは分からない。そのことを前提にしている真剣形だからである。
そして、この「こころ」には、相手の剣先から恐怖感にかられて「逃げる」という本能的な心の働きは、すでに払拭されている。
しかし、そのような「居つかないこころ」を充分に培ってなお、稽古にあっては、「形」の型の指示に寸分たがわずそのとおりに体をさばかなければならない。先の「相寸」の場合は、右斜め前方に体をさばくこと。これを基本とよんでいる。
すなわち、全ての「形」は基本のことであり、基本の「基」の意味する「物事の一番下にあってささえているもの。土台。根本。」に「形」の真実が暗示されている。

そのような稽古をくり返し繰りかえし行う過程において、「呼吸法」を体得し「気魄」を練り、呼吸と気魄の連関性を知り、そして体がどのような激しい動きの中にあっても、その「動」きがもたらす物理的な息の苦しさから解放され、安定した一定間隔の深い呼吸の下(もと)で「こころの『静』けさの境地に達する。

「動」から「静」に転じる瞬間、脳内に「カシーン」という音が響く
それまでは猛烈な息の苦しさに襲われている。苦しいからと言って口をぱくぱくあけて空気を吸うことは少なくともこの世界では認められていない。
しかし、鼻からだけの空気の量では、体は酸素不足に陥る。筆者は稽古の時、空気は口からではなく、どのような激しい動きの時でも鼻から吸っていた。相手にこちらの呼吸のタイミングを見破られないためだ。したがって、たまらなく苦しくなる。その苦しさが極限まで達した時、その音が脳全体に響きわたる。そして、信じ難い世界に入る。こんな世界があったのだ。
呼吸の苦しさはどこにいったのだろう。あれほど息苦しかったのに。
心は実に平穏だ。しかも、稽古の相手方(打太刀)の全体像や周囲の状況を冷静に見つめている。しかし、体はあいも変わらず機に応じて素早く動いている。深く静かな呼吸のもとに
この経験を紘武館の松村重紘先生に話したことがあった。八丈島に旅し不思議な体験をする前だった思う。
先生は私の話にじっと耳を傾けていた。時が止まったように。そして、終始無言であった。

この真剣形武術の鍛錬によって浄化される人のこころは、「拝金至上主義」の元凶たる「即物的精神文化」に染めつくされたわが国にあって依然、息も絶え絶えだが、厳然として存在する伝統的精神文化:「清貧の思想」と濃密に関係する。「浄化されるこころ」は、「命を捨てきる意識」の醸成とその堅持に障害となる過ぎたる物欲精神をたしなめ、厳しく排除していくからである。
 さらに、真剣形武術が生み出す精神は「自他の命の尊厳性」を至上原理とする価値観の覚醒に人を導くものであり、自己の物欲充足にひた走る「自他峻別の精神」や「拝金至上主義」の元凶である「即物的精神文化」を立て直し、「自他一体の精神文化」の確立へといざなう。
 帝国剣道形(1912<大正1>年完成)を原本とする、太刀形七本・小太刀形三本からなる真剣形である日本剣道形は、北辰一刀流・神道無念流・直新影流・小野派一刀流など日本全国の諸流派の妙技を集約したものであり、先人の必死の思いと英智が凝縮された珠玉の真剣形である。
 この日本剣道形の理合を修練することによっても気合・間合・残身を会得し「交剣知愛」にふれ「自他一体の境地」に必ず達する。

「私」を捨てる「無私の精神」の涵養⇒「自他峻別の精神」の排除=「自他一体の精神文化」の確立⇒世界恒久平和への道(拙著『歴史教科書問題』第三章の九②「祖国とは何か、そして愛国心とは」長崎出版2007年 p401 – 411 加筆抜粋引用)

要拡大画像T1北の方角からみた
伊豆鳥島 1984(昭和59)年4月中旬
 筆者撮影
【東京駅からほぼ真南へ約579㎞の位置。現在は無人島で活火山に指定されている。周囲約6.5kmのほぼ円形に近い二重成層火山。島の北方には、鳥島カルデラとよばれる海底火山。鳥島はその海底カルデラの南縁にある。】

↓ 要拡大画像T2東南東上空から
2002(平成14)年8月12日
 海上保安庁撮影
【山頂部に直径約1.5kmの外輪火口、その中に2つの中央火口丘の子持山(361m)と硫黄山(394m)がある。

画面右上と真正面(雲と左側の噴煙の間)の黒い塊は噴火で流れ出て、地表で冷えて固まったマグマ(溶岩原)この方角が北。画面左上隅のたなびく噴煙の真下に見える緑色の緩斜面に気象庁のかつての気象観測所(測候所)の一群の建物がある。この画面を拡大するとかすかに白く見えてくる。
この建物は画像T3でハッキリと確認できる。
画面中央の外輪山の低部に黄土色の岩肌がみえる。これが画像T5でふれるオキノタユウの「従来の(自然の)コロニー」(繁殖地)で、画面からコロニーの周囲が急峻な崖に囲まれていて、地滑りが起きやすいことが見てとれる。】

↓ 要拡大画像T3西側上空から
   2002年9月4日 14:00
  海上保安庁 撮影
【画面中央下、1947年に開設され1965年に群発地震のため閉鎖された気象庁鳥島気象観測所(中央気象台鳥島測候所)の建物(島の西部)がみえるが、この建物の東側(硫黄山方向)の緩やかな斜面が、噴火や火山性の崩れやすい表土からオキノタユウを守るため、新たなコロニー(Colony: 移住地→集団繫殖地)に選ばれた。このコロニーの整備事業は1991年に開始され、鳥の木彫りで著名な内山春雄が作製した本物そっくりのデコイ(Decoy おとりの模型)を並べて鳴き声を流し、集団繁殖地があるように見せかけてオキノタユウを呼び寄せる「おとり作戦」にでた。
画面中央に中央火口丘の硫黄山(394m)。方角は画面左みえる黒い溶岩原が北、スミス島・青ヶ島方向。】

要拡大画像T4国土地理院地図
  鳥島3D画像(高さ方向倍率2倍)
  画面上が北方向
画像T2と方角がほぼ一致している。
溶岩は岩(大)の地図記号で表されている。
  上の画像T3の左側にその溶岩が2か所みえる。

画像T5:伊豆鳥島遠景(南側の燕崎沖から)
【中央部からやや右下の位置に、黄土色をしたオキノタユウのコロニーが二つ観察できる。この画像と画像T2および画像T4の等高線からこのコロニーが急峻な崖に囲まれていることがわかる。
火山の噴出物が固まってできた岩石(凝灰岩)は、軽くてやわらかく比較的風化されやすいため地滑りが起きやすくコロニーが流される危険性が生じる。
この画像は、「ぱしふぃっく・びいなす」号船上より、2007年1月に投稿者が撮影した一枚。
この燕崎の二つのコロニーは、島の南東側の斜面に集中していた「従来の(自然の)コロニー」で、現在はこれとは別に、画像T3にみえる元気象観測所の建物の周辺に、人の手によって「新しいコロニー」が形成されている。】

↑ 画像:「海の女王」・「沖の太夫」
の親子
↓ 画像2枚:オキノタユウの若鳥
(幼鳥は全体が黒褐色)
撮影:長谷川博(東邦大学名誉教授)
撮影地: 伊豆鳥島

【巣立った幼鳥は全身黒褐色で、くちばしだけが桃色。2、3歳でもまだ全体に黒褐色で、わずかに目の下が白く、胸から腹にかけて少し淡くなる。
4、5歳になると額から顔、喉、さらに胸から腹が白くなってくる。
6、7歳になると胸や腹だけでなく、背も白くなり始め、白黒まだらになる。このころから、頭部の羽毛に黄色味が加わってくる。
8,9歳になると、後頭部や背に黒褐色の羽毛を少し残すだけになり、約10歳で体全体が純白になる。
しかし、個体差があり、15歳になってもまだ後頭部に黒褐色の羽毛を残しているものもある一方で、8歳でほぼ純白になるものもいる(以上、長谷川博教授)。
とすると、この2羽のオキノタユウは6,7歳だろうか。完全な(?)成鳥は純白ということか。
そう言えば、Albatrossの ‘Alb’ の語源は、ラテン語の ‘Albus’ = ‘白い’】

求愛のダンス
撮影者:長谷川博教授
撮影地: 伊豆鳥島

2024(令和6). 05. 29.
Ⅰ. 【伊豆鳥島のオキノタユウ】
 この実話では、意識体の「正」「邪」の区別を離れて純粋に不思議な現象をお伝えしたいと思う。

 伊豆鳥島は125名の人の命と、撲殺された無数のオキノタユウの命の犠牲という悲惨な過去を背負いながらも、島では現在オキノタユウの奇跡の復活のドラマが着実に進行している。
ヒトの強欲により撲殺され、1,000万羽から10羽まで潰滅したこの大型の海鳥は、同じヒトである人達の愛の手により2023年現在で7,900羽以上まで回復した。
 第2話のこの『伊豆鳥島沖の叫び』には、かつてアホウドリと蔑称されたオキノタユウ(アルバトロス)の2、3歳くらいの幼鳥が、流れ刺し網にかかった春トビめがけて、夜の暗闇から音もなく突如現れ、まるでグライダーのようにサーッと滑空しながら、あっという間にトビ魚をさらっていく勇姿が描かれます。筆者が生まれて初めて出会ったオキノタユウだった。
本当に驚いた。実に大きいのです。このような大きな鳥にはそれまで出会ったことがなかった。
『…叫び』のメインテーマに入る前に、オキノタユウと伊豆鳥島について少しふれたい。
 
 「沖にすむ大きく美しい鳥」という意味をもつオキノタユウ(山口県日本海沿岸部での呼称。別名:信天翁)は国の特別天然記念物で絶滅危惧種です。英名はshort-tailed Albatross(尾羽の短い海鷲)。航海中にこの鳥を見かけると嵐が来る前兆とされたので、ドイツ語ではSturmvogel嵐の鳥」と呼ばれている。海外では、ずいぶんと勇ましい名前で呼ばれている。
 全長(くちばしの先端から尾羽の先端までの長さ)は84~100cm翼開長(翼の両翼端を結ぶ距離)が190~250㎝体重3.3~5.3㎏時速80キロの高速で海原を飛翔する北半球最大の大型海洋鳥です。卵は鶏卵の実に6倍もある(長径11.8cm、短径 7.4cm、重さ約375g)。
長谷川博教授によれば体重は最大で7㎏に達するそうです。巣立ちひなの平均寿命は21.7年 。オキノタユウは寿命が長く、31歳でヒナを育てていた例が知られている(長谷川, 2006)  
「鳥島漂流史」(ウエルカムジョン万の会 中浜万次郎資料室編)によると、1681(延宝3)年から1844(弘化1)年にかけての江戸時代の記録に残る鳥島漂着は、13件。漂着した乗組員は判明している分だけで98人、そのうち80人が無事生還している。生き残った人たちは、この海鳥が繁殖のために鳥島に帰ってきている期間、特に11月初旬から翌年の3月下旬までにこの島に漂着している。
 水も食料もないこの島に流れ着いた98人から80人の船乗りたちはオキノタユウとその卵を主食とし、餓死を免れた。鶏の卵の6倍もある卵殻には雨水を貯めて保存し飲料水にしたという。艱難辛苦をへて故郷に運よく帰還した彼ら漂流民は以後一生一切、トリ肉を口にすることがなかったという記録が残っている。オキノタユウへの深い感謝の気持ちが伝わってくる。

 成鳥は4月末~5月初めに渡りを開始するが、渡っていく先は北太平洋のベーリング海やアラスカ湾、アリューシャン列島、一部はカナダ、カリフォルニア沿岸に達することが人工衛星の追跡で分かってきた。
 5歳程度までの若鳥は島には戻らず1年中海上で暮らしますが、成鳥は10月初旬に繁殖のため島に戻って年を越し、子育てを終えて渡りを再び開始する5月初旬まで島にとどまる。
 つまり、オキノタユウは島で子育てをする7か月間を除いて海の上で過ごす生粋の海鳥。足指の間には薄い膜、すなわち水かきがついている。
 海にいる間は重力と反対の向きに働く浮力が3.3~7㎏という重い体重を支えるので、足で体を支える必要はありません。そのため、5月初旬に渡りを始めてから10月初旬に繁殖のため再び島に戻って来るまでの5か月間で、足の筋肉(モモ肉)は相当萎えてしまう。
 しかも、この海鳥はその重い体重が災いして、危険を察知したとき瞬時に飛び立つことができない。体重が重くなるほど、単に翼を羽ばたくだけでは空中に浮かぶことは難しい。 
 そのため、翼に十分な揚力をえて飛ぶには斜面を(上から下へ)利用したかなりの距離(20~30m)の滑走が必要になる(⇒固定翼飛行機の発明は、オキノタユウやオオミズナギドリなど、この種の鳥がヒントになっている)。筋力が低下し萎えた足でこの距離を助走する姿は容易に想像がつく。
 おぼつかない歩き方に加えて、さらに足るを知らず残忍・残虐性を本能として潜在的に備えているヒトという種に対する警戒心が薄く、外敵が近づいてきても巣に座り込んで卵を守る習性があるという。
 その当時の鳥島はどの国にも属さない無主地の無人島で、樹木もなく山肌に草原が広がるオキノタユウの楽園そのものの平和な生息地だった。とくに山腹にはこの海鳥が無数に群棲していて、遠くからは白雪が堆積するように見えたそうだ(服部徹著『鳥嶋 信天翁の話 』1889年)。また、いたるところに列をなして巣をつくっていて、その様子は千里の原野に綿を敷き詰め、万里の砂漠に雪が積もっているようだった。その数は数千万羽、とも描かれている(玉置半右衛門著『鳥島在留日誌』「鳥島一括書類」)。
 オキノタユウの習性と、ヒトに会ったことがないことに起因するヒトを恐れない性質そして陸上での緩慢な動きを奇貨として、オキノタユウを「ばかどり(馬鹿鳥)あほうどり(阿呆鳥)」と蔑称する一団がこの楽園に現れた。
 こん棒を使って頭部を狙って殴り殺し羽毛を剥ぎとって一攫千金を狙う一人のヒトとこの人物が雇う12人の労働者だ。
 1887(明治20)年11月5日のことでした。この日がオキノタユウの受難の歴史の始まりだった。東京府がこの人物に許可した上陸の条件は本人が願い出た「牧畜開拓」。しかし、それは単なる名目でだった。1897(明治30)年12月で10年間の借地期間が終了するにあたり、この者が東京府に提出した過去10年間の開拓の誇るべき成果として、島中に張り巡らされた道路網、小学校や石垣に囲まれた集落の建設、島の北岸に千歳港整備などが掲げられていました。しかし、これらの事業はすべて虚構で借地許可を得るためのカモフラージュにすぎず、粉飾されたでたらめのユートピアだった。鳥島を借地する狙いはただ一つ、羽毛だった。
この一団には年を追うごとに出稼ぎ労働者が追加導入され、下記の大噴火当時は125人に膨れ上がっていた。
 この者が、 撲殺事業で得た年収は今の貨幣価値で10億円。1896(明治29)年には全国長者番付に彼の名前が掲げられたほどです(平岡 昭利著『アホウドリを追った日本人』p16‐23、32-36 参照 岩波新書2015)。
 しかし、1902(明治35)年8月5日または6日伊豆鳥島は大噴火を起こし、羽毛の採取に従事していた125人の出稼ぎ労働者全員が行方不明のまま死亡とされた。
 噴火以前、この鳥島にはかつて千歳(ちとせ)浦とよばれた大きな入り江(湾)があった。画像T1では画面の中央、画像T3では画面左端の上下の黒い溶岩原(Lava field)の間の窪み、画像T4では画面、上中央の窪みがその痕跡をとどめている。
 この千歳浦から上陸した辺りに事務所や納屋、労働者の住宅が5,6戸あったが、噴石や岩石の崩落によって集落と湾は一瞬のうちに埋没し、遺体は全く発見されなかった。おそらく、画像T2・T3でみえている溶岩原の下に犠牲者の多数のご遺体が眠っていると思われます。そして、1887(明治20)年11月5日の鳥島上陸からこの大噴火までの15年間で、撲殺されたオキノタユウの数は600万羽に達していた。
 しかし驚いたことに、この人物は大噴火の翌年1903(明治36)年には、島では噴火がまるでなかったかのように再び29人の労働者を島に派遣、その後さらに労働者を投入し総数7,80人でオキノタユウの撲殺事業をなおもつづけました。要するに、最後の0羽になるまで獲(採)り尽くす慈悲のかけらもない根こそぎ・根絶やし収奪」をおこないました。
 この組織的な捕殺事業は、9年後の大正時代(1912年~)に入り、撲殺対象の枯渇でようやく終焉しました(前掲『アホウドリを追った日本人』p53‐57参照)。結局、どれだけのオキノタユウの血が島の大地に流れたことか。
 この者をこのようなー今日であっても、その名が後世で記憶され話題にのぼることが、出身地ではばかられ・忌避されるほどー冷酷無慈悲な行為へ駆り立てた背景には何があったのか。
 大蔵省編「大日本外国貿易年表」によると、1908(明治41)年における羽毛・鳥のはく製の輸出先上位三か国は、上から順にフランス、イギリス、ドイツで、いずれもファッション志向の強い国々だ。この人物らが伊豆鳥島に上陸する7年前、1880(明治13)年から1920(大正9)年頃にかけて、日本はすでに世界の婦人帽などの主要な原料供給国だった。
 とりわけフランスのパリでは当時オートクチュール(仏語: haute<高級> couture<仕立て服>)の新作コレクションで、帽子や羽飾りに多くの羽毛が使用されファッションとして大流行していた(オートクチュールは高度な職人技術が反映されたフランスの服飾文化が誇る芸術品だといわれている。ファッションデザイナー・森 英惠<もり はなえ 1926 昭和元年1月8日 – 2022令和4年8月11日>は、日本人で唯一のパリのオートクチュールデザイナー。)。
 また、フランスは加工された羽毛や羽毛を原料にした羽飾り製品をヨーロッパ全土やアメリカに高級装飾品「パリの品」として輸出していたが、ヨーロッパ諸国が保護鳥・禁猟などの条約を結び鳥を益鳥としてその捕獲を禁止していたため、フランス商人はその原料となる羽毛やはく製鳥を極東の日本をはじめ世界中の国から買い集めていた。
 世界市場とくにヨーロッパ市場できわめて高い価格で売買される羽毛やはく製鳥は、当時日本からフランスへの重要輸出品目で、明治期の日本はオキノタユウなど鳥類の輸出大国だった(前掲『アホウドリを追った日本人』p61‐70 参照)。
 オキノタユウは明治以前、北太平洋全域でみられ小笠原諸島、伊豆鳥島、尖閣諸島大東諸島などに数百万羽から数千万羽の規模で生息していた。伊豆鳥島の南端から南南東に約417㎞(父島の北端までの距離)の小笠原諸島において、無数に存在しこん棒と袋さえあればいともたやすく捕獲できる大型のこの海鳥は、明治十年代(1877年~)に入って急増した移住者によって金になる有望な資源として狙われ撲殺された。この大量の捕殺によって小笠原諸島では5,6年で激減し、明治十年代後半には北の聟島(むこじま)に生息するだけとなってしまいました(聟島は父島の北端からほぼ真北に63㎞)。
 しかし、誰しもが完全に絶滅したと諦めていた矢先、1951(昭和26)年に、中央気象台鳥島測候所(後の気象庁鳥島気象観測所)の職員が火山の調査をしていたところ、島の南東の燕崎の斜面に10羽ほどのオキノタユウが生息しているのを奇跡的に発見した。画像T2・T5でふれた「従来の(自然の)コロニー」の場所だ。画像T3にみえる気象観測所跡(測候所跡)周辺の広々としたより営巣地に適した斜面ではなく、画像からも分かるように、周囲を急峻の崖に囲まれた比較的狭い山腹だった。
 火山灰など火山の噴出物からなる島の表土は軽くてもろく岩の崩落や地滑りなどが起きれば、コロニーはひとたまりもない。
 どうしてこのような危険な斜面を選び営巣していたのだろうか。「撲殺対象の枯渇」が大正時代中頃の大正7(1918)年だと仮定すると、1951年の「奇跡の大発見」まで30年以上が経っている。30年以上も前の惨劇の光景を記憶しあるいは「ヒトの危険性」を本能的に学習し、次の世代に伝えていたのか。もし、測候所のヒトがいなければ画像T3の草原地帯で昔のように生息していたのだろうか。
 いずれにしても、中央気象台職員によるこの発見が大型海洋鳥・オキノタユウの運命を決定づける復活の大転換点となった。
 画像T3の解説文にあるように、燕崎の「従来のコロニー」は急峻な崖に囲まれているうえに、地表が火山灰や火山砂などの軽い噴出物が固まってできているため(凝灰岩)、太平洋プレートの沈み込みによる地震や火山性地震によって、あるいは台風などの風雨で地滑りや土砂崩れが起きる危険性がある。そこで、オキノタユウを「従来のコロニー」から「新しいコロニー」へ呼び寄せる「おとり作戦」が行われた。この作戦は見事成功しそれなりの成果がでた。
 しかし、大きな心配が一つあった。それは、鳥島が火山島のため、噴火がひとたび起きると絶滅の危機にさらされることだった。
 そこで、繁殖地として火山島ではない小笠原諸島(群島)の聟島が移住先に選ばれた。先ほどふれた、父島からほぼ真北に63㎞、伊豆鳥島からは南南東へ356㎞離れた、小笠原諸島でオキノタユウが唯一生き残っていたあの島だった。めぐり合わせかも知れない。ヘリコプターを使ってオキノタユウのヒナ(雛)を空輸するという一大イベントが計画された。
  世界中が注目した。2008年2月19日のことだ。この年から2012年までの5年間、ヒナを毎年10~15羽、計70羽をヘリコプターで移住させた。2022年には同島で生まれた個体が繁殖、孫世代が誕生していて、愛をもつヒトたちの努力が実りその苦労が確実に報われている。胸が打たれる思いがする。

2024(令和6). 07. 22. 起稿
Ⅰ. 【伊豆鳥島沖の叫び】
 ブリッジ(操舵室)に取り付けられた作業灯(デッキライト)の眩しいほど強烈な照明がデッキ(Deck 甲板)を煌々と照らしている。
 漁船一隻が広大無辺の闇の太平洋に浮いている。目に映るのは、照明がてらす船体とデッキ、そして流し刺し網だけだ。
夕方からトビウオ漁は始まる。網を入れてから、トビウオがかかるまで一定時間、船はデッキライトに照らされた網に沿ってゆっくりと巡る。不思議な体験をする前のゆったりとしたひと時だった。デッキライトの強烈な光に照らされて、漆黒の大海原に光の珠のように浮かぶ7人乗り第三稲荷丸(19トン)。

 1984(昭和59)年の3月初旬から6月初旬までの3か月間、伊豆八丈島に滞在し武道の修行も兼ねて春トビウオ(春トビ)漁やマグロ・本カツオ漁に従事したことがあった(春トビの種類:ハマトビウオ 英名:Japanese giant flying fish / Coast flying fish 。マグロ漁は、きはだマグロが主体。ときどきトンボ(ビンチョウマグロ)が疑似餌に掛かる。)。
 春トビウオ漁は神湊漁港所属の第三稲荷丸(19トン )に、マグロ・カツオ漁は同じく神湊漁港所属の第八稲荷丸(19トン)にお世話になった(春トビウオ漁は、産卵のため南太平洋から黒潮にのって北上するトビウオを流し刺し網で獲る漁)。
 どの漁もそれなりに苦労があるが、その中でも2月末から4月中旬頃まで、八丈島から南へ約287㎞離れた伊豆鳥島沖で行われる春トビウオ漁は、アラスカ・ベーリング海のカニ漁および、同じくアラスカ・ベーリング海のサケ漁と並び体力的にも精神的にもかなり厳しいと言われている。
事実、1航海は1週間少々だが睡眠時間が正味1日1時間弱と極めて短く、そのためひげ(髭)や爪がほとんど伸びなかった。当然のことだが、髭剃りや爪切りはまったく不要だった。
 
 
  
 
 



 

 





 


 

 
 

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